[コメント] 機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編(1982/日)
小学生の頃、この3作目だけは劇場で観た記憶がある(確か、今は無き赤羽オデヲン座で)。当時、ララァというキャラクタがどうも好きになれなかった。突然物語に現れ、わりとすぐに退場するにも関わらず、アムロとシャアにとってとてつもなく大きな存在として描かれることへの違和感が。40年近く経った今再見すると、その違和感こそが、ニュータイプというわかるようでわからない概念をぶちこんだことと合わせて、製作陣による画期的なチャレンジだったのだと理解する。
戦闘中にアムロとララァがチャネルする場面のダイアログを、長くなるが以下書き起こしてみる。
−あなたはこんなに戦えるじゃない、何故なの?あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに
−なんだと⁈
−私にはわかる、あなたには故郷もなければ家族もない、人を愛してもいない
−だから、だからってどうだっていうんだよ!守るべきものがなくて戦ってはいけないのか?
−それは、不自然だわ
−ではララァはなんだ?
−私を救ってくれた人のために私は戦っているの
−たった、それだけのために⁈
−それは人の生きるための真理よ
−では、この僕たちの出会いは何なんだ?
−何故なの?何故私は遅れてあなたに出会ったのかしら?
−運命だとしたら、ひどいもんだよな、残酷だよな…
−あなたと出会ったからってどうなるの?どうにもならないわ、どうにも…
−しかし、これは事実だ、認めなくちゃいけないんだ
−認めてどうなるの?出会ったからって、どうにもならない出会いなのよ!出会えばわかりあえるのに、何故こういうふうにしか会えないのかしら、あなたは私にとって遅すぎて…
−僕にとって、あなたは突然すぎたんだ、人同士ってこんなものなんだよな…
なんと観念的で哲学的な会話なのだろう。というか、会話としてほとんど成立していない。こんなものを子供向けアニメにぶっこむなんて常軌を逸している。大人が大人として成立していた時代だったのだな、と感じる。
この「めぐりあい宇宙編」は、アムロとララァの物語であると同時に、セイラの、ミライの物語でもある。ラストは感動的だ。ニュータイプの覚醒というテーマを通じて、人間が「変わる」ことで、死と破壊が渦巻く戦争の悲劇を克服することができる、という邪気の無い楽観と希望を、幸福な余韻として残してくれる。
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