[コメント] サクリファイス(1986/スウェーデン=英=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
大学生の時にリアルタイムで映画館で観た。この作品がタルコフスキー初体験だった。 それはもう「体感」と呼んでいいくらい、まだ頭の柔らかかった当時の私にタルコフスキーは染み込んだのだった。
それから20年。スクリーンでの再会。 どうしてもこの目で(できればスクリーンで)確かめたいことがあった。
「アンドレイ・タルコフスキーの遺作は細い木と少年で終わる。」
これは私の発見でも何でもなく、多く語られた有名な話である。 私自身の記憶の中でもそれは間違っていなかったのだが、 後にデビュー作を観て、やはりもう一度遺作をこの目で確かめたいと思っていたのだ。
「長編デビュー作『僕の村は戦場だった』は細い木と少年から始まる。」
『サクリファイス』における少年("子供")に、「未来」あるいは「希望」という言葉を当てはめてみる。 「声」はおろか「名前」も与えられない"子供"に、そう仮説を立てるだけで、この映画の解釈はグッと広がる。
『サクリファイス』で起こる出来事は、全て主人公の「妄想」だという仮説を立ててみる。 解釈はガラリと変わる。だが、映画上の符号はピタリと一致してしまう。 「全てではない。核戦争は現実でそれ以後が妄想なのだ」と言っても、この映画の符号はピタリと一致してしまう。
少し前に流行ったタルコフスキー解釈以降、我々は「感じる」ことではなく「理解」することに努めている気がする。 「木と子供」に集約した自身のキャリアの中でタルコフスキーが何を伝えようとしたのか、その解釈はもっと多種多様でいい。
ただ、タルコフスキー映画の解釈に文字を当てることが、非常に困難なのである。
個人的な想いも含めて、再鑑賞で点数上げる。
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