[コメント] 破線のマリス(1999/日)
この作品では「モンタージュ(編集)」を問題提起していた。
「事実」はたったひとつしか存在しない。だが、それを目撃した者の「視線」によって、「視線の数だけの事実」が作り上げられる。「映像」もその複数の中のひとつである。
「映像」はひとつの作品として完成するまでに取捨選択され、さらに切り貼りされてメッセージ性が付加される。この時点で「映像」は「事実」ではなく、編集者の「メッセージ」となって視聴者に紹介される。
例えば昨今の自衛隊のイラク派遣の映像にイラクの民衆のカット映像を挟む必要があった時、怯える子供の映像を挟み込むか、無邪気に踊る子供の映像を挟み込むかでは、自ずとその作品は違ってくる。また、自衛隊員の笑顔をアップで撮るか、肩に担いだ小銃をアップで撮るかでもメッセージ性は違ったものとなる。
どちらも実際の被写体を写した「事実」には違いないが、視聴者には編集者が意図した「事実」しか知らされない。(刷り込みである)
話を作品に戻そう。本作では「編集」を問題提起した意欲作であると高く評価したい。だが、欲求不満なのが、黒木瞳演じる編集者ひとりの責任として描かれていたことが残念であった。とても局地的なたったひとりの「技法的」な問題としてだけ描かれ、より大きな命題には突っ込んではくれなかった。
本当の問題は何をどう取材するかではないだろうか?「技法的」以前の「姿勢」の問題である。さらに言えば、報道局内での「方針」に向かって(沿って)映像やら識者のコメントやら新橋の酔っ払いのコメントやらが流されているのではないか?
昨今のキャスターはその「方針」に沿った答えを引き出そうと、ちょっとばかり強引とも思えるような質問をゲストの識者にぶつけたりしている気がしないでもない。筑紫さんは柔和な笑顔で巧みな誘導をし、久米さんはストレート過ぎて失笑を買い、福留さんに至ってはその幼稚な手腕に呆れてしまう。それに比べ古館さんは相手の答えも待たずに自説を捲くし立てるという「新スタイル」で苦笑するしかない。もう「報道」というよりも講演に近いものがある。
ここまでくれば、苦笑しながら「裏」を読み取らざるを得ない。
PS,私は「編集」された映像を全否定するつもりはありません。「素材」だけを延々と見たい訳でもありません。ただ、派手な「脚色」の作品に辟易しているのです。編集者の頭の中まで想像出来てしまうような陳腐な「脚色」作品に辟易しているのです。我々はそんなに馬鹿ではありません。「素材」を与えられれば自分なりに判断し、分析し、考えられるでしょう。
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