[コメント] ブリキの太鼓(1979/独=仏=ポーランド=ユーゴスラビア)
単に、合体の産物としてしか描かれない赤ん坊達の登場のしかたが哀しい。
彼等が世に出てきたプロセスを知る観客は、その誕生を素直には喜べず、不安で複雑な心境におかれる。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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ドイツ国家は、自らが欲してナチを産み、ヒトラーを育て、しまいには葬り去った。 でも、必要とあればファシズムを生み出す構造そのものは少しも変わってはいない。
子供の姿でいれば、他の子供達からいじめられる存在でありながらも、子供のすることなど、ほぼ危険視されない社会を利用して、確信をもってコミットしていることを隠し、邪魔なものを排除していくことも出来る。 自ら成長を止めるという行為は、そうするための手段だったと思う。周囲で起こる出来事を観察しながら、注意深く自分の出方を決められるように、子供の体を必要とした。 オスカルの危険さを知っていた団長が差し出した友好の握手は振りほどかれ、分身であった母親は死に、自分が消した父親達はもういない。 父親の情婦の体から這い出てきた自分の分身を取り戻した今、再び成長を開始するべき時がきたのだ。
ユダヤの弾圧と、ヨーロッパを火の海にした咎で、世界中から袋叩きに合い、帝国は引き裂かれ、いったんは滅んだかのようにみせつつも、戦後、徹底的に腰の低い外交を貫き、”ヨーロッパの恒久平和に貢献する”という信頼関係を定着させていく国家活動の影で、着々と再軍備し、次なる覇権争いに打って出る好機を虎視眈々と狙っている。 そんなドイツ国家のイメージがオスカルと不気味に重ねられているようだ。
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