コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 自由の幻想(1974/仏)

忘却を拒絶し揺曳する夢、自動筆記再生の可能性、『トリストラム・シャンディ』、「語られる」ということの異常、「語り」のオートポイエシスとパタフィジック、因果律の風は、貴方の踵で吹き止むか?、X Filesの装置
muffler&silencer[消音装置]

注意:『Xファイル』に関するネタバレがあります。

---------------------------------------------

僕は、森鴎外の小説にも出てくる高瀬川で、なぜか、流しそうめんをしていた。しかも、箸ではなくフォークで流しそうめん。しかも、あまりに猛スピードでそうめんが流れていくので、僕は走らねばならず、全然食べられない。しかも、いつのまにか高瀬川は鴨川に変わっており、流しそうめんはどこへやら、僕はただただフォークを片手に猛ダッシュ。しかも、そこに片桐はいり似のドラッグ・クイーンが「とおせんぼ」するものだから、キレた僕は、彼女の頬にフォークを突き刺すのだ。フォークがザックリ頬に突き刺さった片桐はいりの悲鳴と共に、僕は加茂川にダイブ。野次馬が集まり、パトカーのサイレンが鳴り響く。

そこで目が覚めた。

僕は、この十年前に見た夢を忘れることができない。

ニューヨークに留学した十九歳の夏、到着して二日目の夜に、寮の六人部屋の二段 ベッドの上で見た夢だ。

---------------------------------------------

ニューヨークにて。

大学在学中、小説クラスで毎週短編を書かされたが、自分がどれほど面白い展開とオチと思って提出しても、まず褒められることがなかった。「ああ、どーせ、俺には文才なんてないさ、てやんでー」と言ったか言わなかったかは別にして、自棄になって書いたものが、随分褒められたので、面食らった記憶がある。

嬉しくて、わざわざ自分で日本語訳して、日本の両親や友人に送ってみたが、「ワケわかめ」と困惑気味に言われたので、かなりがっかりした記憶がある。

何をがっかりするのか、最初は自棄で書いたものなのに。

ちなみにタイトルは、『生まれてよかった』。

---------------------------------------------

自分を他者として位置づけ、意識を排し、勿論「位置づける」という意識も排除し、無意識の中で人格と認め得るぎりぎりの人格が発する語りを「自動的に」書き付ける。ブルトン、ロートレアモン、いわゆるシュルレアリストたちの遺産となったエクリチュ-ル・オートマティック(自動筆記)の、否定された可能性の再生を試みました。

と、後に『生まれてよかった』の解説をと、教授に突かれ、ちょっと読みかじった文言を並べて、適当に答えたのだった。

「それでは、その路線でもう一本」と言われ、書いたのが『きれいだと言わせたいのか』。

---------------------------------------------

「まるで『自由の幻想』みたい。」

それを読んだ友人が言ったか、言わなかったか。

言われたとして、僕がそれを理解したか、理解しなかったか。

理解しなかったとして、僕がそれをどう解釈したか、どう解釈しなかったか。

いや、一体、それは友人が言ったのか、教授が言ったのか、自分で言ったのか、誰も言わなかったのか。

---------------------------------------------

「その」か、「あの」か、「この」か、とにかく友人が僕に薦めてくれた本がロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ(トリストラム・シャンディ氏の生活と意見)』。〈*1〉

小説という形式を破壊する小説、「意識の流れ小説」の先駆的小説として有名であり、18世紀にしてジャック・デリダのいう脱構築の実践が行われている。

通俗的な反応としては「語りの異常」。

---------------------------------------------

そもそも「語りに異常」などない。戦略的に言えば、語られている我々が異常なのである。

つまり、「物語」という過去は恒常的に不変で普遍なのであって、もし、そこに<異常>を察知するならば、「『物語られている私』に内在し同時進行している物語」こそが、異常なのだ。

よく嘲弄的に言われる<ハリウッド・ムービー>は、「『物語られている私』が録画予約した物語」(以下、「録画予約の物語」)と言っていい。

自己の語りが他者の語りを内包している、とでも言おうか。

---------------------------------------------

そういう意味で「語り」は自己生産的である。

そういう意味で、『自由の幻想』は、あまりに「純粋な語り」であるがために、我々がその認知を峻拒し、死産を望む語りなのかもしれない。

---------------------------------------------

なぜ、純粋か。

いわゆる「録画予約の物語」は「事件」を描く。その事件の「前・後」は、作り手が描きたい事件のためだけに存在し、意味を持つ。

反面、現実、その主観的に切り抜いた「瞬間的な時間」と、その前後の「永久的な時間」、その二重時間の相克の中に、我々は生きてはいやしまいか。

この『自由の幻想』での語りは、その二重時間を更に止揚させているとは言えまいか。

端的に言えば、瞬間と永遠の融合を、スクリーン上で試みたのではないか。

しかるに、純粋なのである。純粋な試みと換言しようか。

---------------------------------------------

マルティン・ブーバーは言う。*2

「<なんじ>の天がわたしの上にひろがっているかぎり、因果律の風は、わたしの踵に吹き止み、宿命の渦も渦巻くことはない。」

---------------------------------------------

『Xファイル』の第5シーズンだったか、第6シーズンだったか、因果律のおもちゃを趣味で作る男の物語、強く印象に残っている。

主人公は、もの凄い強運の持ち主なのだが、彼がピンチを脱する度に、周囲の人間が不幸な状況に陥るのだが……。

---------------------------------------------

なんの話をしてるかって?

貴方に内在する語りは、何と語っているのでしょう?まあ、とにかくご覧あれ、『自由の幻想』を。

*********************************************

(*1)

『トリストラム・シャンディ』の解説としては→http://dmi.vis.ne.jp/works/england/212-1.html に詳しい。

(*2)

マルティン・ブーバー著,植田重雄訳,『我と汝・対話』(岩波文庫)より。

ただし、この訳書はあまりお薦めしない。

ちなみに、僕の手持ちの、ブーバーが認めた英語訳本で、引用箇所は、

"So long as the heaven of Thou is spread out over me the winds of causality cower at my heels, and the whirlpool of fate stays its course."

となってます。

(*ご参考までに)

『生まれてよかった』→ http://isweb39.infoseek.co.jp/diary/lasalas/umareteyokatta.html

『きれいだと言わせたいのか』→ http://isweb39.infoseek.co.jp/diary/lasalas/kireidatoiwasetainoka.html

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (3 人)tomcot マッツァ[*] tredair[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。