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[コメント] 叫びとささやき(1972/スウェーデン)

<我に触れるな>

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ヨハネ書によれば、復活したキリストはマグダラのマリアにむかってそう言ったという。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」と。

本作においても、長女カーリンは三女マリーアに対して「私に触らないで」と、かたくなに拒む。そこには何らかのアナロジーがあるのだろうか?三女は俗世に馴れ、うわべの社交性によって生きている。穢れたマリーア(=マリア)である。では、彼女に触れられることを忌避する長女はキリストなのか?カーリンは夫との欺瞞に満ちた生活を嫌悪し、現世を偽りと憎しみとともにしか見ることが出来ない。しかし、その根底には充足されない現世的欲求がある。他者との心の交流、夫との性生活、三女との友情を求めているにもかかわらず、それらが実現しないことの反動として、現世に対する憎しみを抱き、そうして自らを肯定する。カーリンがキリストのアナロジーだとするならば、それはニーチェ的理解におけるキリスト者として、現世を憎悪するルサンチマンの権化としてである。そのような弱者であるが故に、あれほど忌避していた三女との接触でさえ、三女が歩み寄ることによって受け入れてしまう。しかし、そこで交わされる会話は沈黙が暗示するように無意味なものであった(すくなくとも三女にとっては)。そうして、最後にまた現世的汚れの象徴としての三女がそのときの会話を覚えていないということで、再度ダークサイドに落ちる。その意味では、三女との接触は長女の現世への否定をますます強めることとなったのである。

他方で、実際に死から復活した次女アングネスは、自ら率先して姉妹に触れるように促す。長女カーリンは、三女に対して感じた現世の穢れとは逆に、死の穢れに対する恐れ故か、触れることを拒絶する。それに対して三女は、偽善パワーを発揮し、次女の手を取る。しかし、そのうわべの優しさは、アングネスに抱きつかれたときにメッキを剥がされる。姉妹に触れることを求めるアングネスの一連の行為は、触れられることを拒んだキリストとは逆に、現世への執着として解釈されうる。それゆえに、次女が安らぐ場面は、昇天するのではなく、アンナの膝の上で安らぐ十字架降下の図像、ピエタの図像なのである。

アングネスの現世肯定は、ラスト・シーンにおいても象徴的に示されている。舞台となる館を埋め尽くす赤と白は、それぞれキリスト教において、キリストの血による贖罪と純潔を象徴する。そのような空間において、たしかに姉妹はアングネスの身の回りの世話をし、本を読んであげるなど、(見せかけだけの)自己犠牲の行為が行われるのであるが、アングネスがもっとも幸福だと感じた瞬間は、そのような姉妹の献身的行為に大してではなく、ただ子供のように庭で遊んでいるときだったのである。たとえ忍び寄る秋によって色褪せつつあったとしても、館の外に広がる庭の、生命を象徴する緑のなかでの時間だったのである。

こうして、キリスト教関連の乏しい知識で適当解釈してみると、本作は現世肯定=キリスト教批判として、つまりニーチェ的キリスト教観に基づいているように思われる。そうなるとベルイマンの宗教観がまったくわからなくなってしまった。いずれにせよ、ホラーで痛々しいにもかかわらず、本作には生への渇望を、ニーチェ的生の肯定を読み取ることが出来るように思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)DSCH 寒山拾得[*]

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