[コメント] 第七の封印(1956/スウェーデン)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
死神とは迷信、いきなり死神が出て来て死神で終わるこの映画、初めから終わりまで迷信.題材も映画に描かれている通りの古い教会の壁画から得たもの、あるいは宗教上の伝説であり、全てが迷信で構成されている.
死に神とチェスをする、芸人の登っている木が死神に切り倒される、誰がこんな馬鹿げた事を信じるのだ、迷信という信じるに耐え難い話に、更に迷信を信じてはいけないと言う要素を織り交ぜながら、全体的には迷信を信じ込ませるように描いているこの映画、結果的にどのように受け取るかによって、観る者の良識を問いただすことになるのでは.
騎士は神の存在を信じている、からこそ、死神の存在を認めチェスを始めた.それに対して手下のヨンスは迷信を信じない、神を信じないというべきか.そして、ヨンスは騎士を嫌い、あるいは騎士とは考えを異にしていて、全てが無駄な時間だったと十字軍の遠征を批判しています.更に言えば、十字軍の遠征を騎士に勧めた聖学者が泥棒をしている悪党で、ヨンスは懲らしめます.十字軍の遠征とは常軌を脱した侵略戦争であり、それ自体がキリスト教のみが正しいという迷信にのっとった行為と言うことができ、皆が皆、迷信を信じる者、あるいは煽る者のなかで、ヨンスだけがまとも、と言ってよいのでしょう.
疫病を神の罰、世紀末と思い込む村人、それを煽る僧.悪魔と通じた少女、夜の火刑場に付いてきた僧は、死神でした.出来事は前後しますが、騎士が懴悔をしたとき、教会のなかに死神が居ました.更に話を戻せば、ヨンスが教会の壁画を描いている男と話をするのですが、壁画は死神ばかりが描かれている、人々の恐怖を煽るような絵ばかりが描かれていた.神様がいるべきところに死神ばかりがいるのです.
騎士の城に集まった者たちの前に死神が現れる.世紀末に覚悟を決めた者たち.神に祈りをささげる騎士に、ヨンスは「闇とやらでいくら祈っても、聞き届けてくれる者は誰もいない.己を見据えなさい」、とけ散らすのですが.
また話を戻して、現実に描かれた死、疫病にかかった男、ことに悪魔と通じた少女の場合、少女自身は私はなんともないと言ったのだけど、現実には死に際してあったものは、恐怖と無、だけ.望まない死も、望んだ死も、どちらも同じであったとしておきましょう.考えても考えなくても、死に差はないのです.
助かった旅芸人の夫婦.この夫は幻を見る、迷信を信じる人間と言えるのでしょうか.けれども楽天的な性格、そして仲の良い明るい夫婦なのです.騎士は死神が現れた時、まともに受けて立ったのに対して、この夫婦は逃げました.神も死神もまともに相手をするな、そんな事をまともに考えても仕方がない.死を考えるからこそ、そこに迷信が生まれる、あるいは神をまともに考えるからこそ、死神が生まれる、迷信が生まれると言えるのですね. この夫婦の会話の感じはこんなふう.あなたまたほらを吹いている、あなたの言うことなんか、だれもまともに受け取らない、そんな事言ってると皆に馬鹿にされるだけ.迷信とはこんなもの、この夫婦のように受け流すべき事なのです.
ヨンスが騎士に何か言われたとき、後から歯を剥いて「いー」っと言った感じでやり返す.身分の上下からまともには言わないけれど、騎士に向かってあなたは間違っていると言っています.ヨンスの口遊む歌は、女の股ぐらに挟まれどうのこうの、助かった芸人の夫婦と併せて考えれば、迷信、訳の分からないことを考えてないで、楽しく明るく暮らすことが大切、己を見つめるとは、ある意味でこう言うことなのでしょう.騎士が駒を倒して芸人夫婦が逃げる時間を稼ぐけど、生きること、生きることを考えることに価値があるのです.
もう一つ迷信とはどう言うものか付け加えておきましょう.騎士は自分はチェスが上手いと信じ込んでいた.うぬぼれていたのです.うぬぼれとは、自分自身に対する迷信であり、その騎士に対してヨンスは「己を見据えなさい」、というのですね.
映画全体が迷信を描いているのだから、訳の分からない出来事なのは当然のこと.死神が出て来たから死を描いた映画と受け取るとしたら、あまりにもお粗末.それが迷信を信じることであり、この映画の何がそう思い込ませるか考える時、疫病を神の罰と思い込む民衆の姿を決して笑えないものであるのが解る.
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (3 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。