[コメント] くちづけ(1957/日)
おそらくこの作品は、前年に公開され一大センセーションを巻き起こした日活の太陽族映画に対する大映のアンチテーゼとして準備された企画だと思われる。太陽族映画が戦前的価値の転倒を引き起こした石原慎太郎の『太陽の季節』に端を発しているのに対して、この作品の原作が日本の伝統的秩序と情緒をもって物語を構築する代表的ストーリーテラー川口松太郎であることからも、それは容易に推察される。
ご存知のとおり太陽族映画では、湘南に住むブルジョア家族の息子や娘達が昼は陽光のもとヨット遊びに興じ、夜は銀座へと繰り出し酒とダンスと喧嘩に明け暮れるさまが最新の風俗として描かれる。一方、本作の主人公である欣一(川口浩)と章子(野添ひとみ)は、本来は中流家庭の息子と娘でありながら家庭の崩壊により経済的な打撃を受けた没落者である。二人は大都会東京の中で埋没したような青春を送りつつ、何と刑務所という最も陽の光の届かぬ場所で出会い、そしてバイクであの太陽族のメッカ湘南へと向う。ここにも、図式的ともいえるほどの太陽族映画との対称性を見ることができる。
しかし増村保造は、この新風俗対旧風俗という単純な構図をそのままで終わらせることなく第3の価値観を提示する。本来の、いくら大人ぶったところで自分の愛さえ自覚できないお坊っちゃん(川口浩)が、章子(野添ひとみ)とその母に自分の愛を賭けることを決意するというポジティブな物語を増村は、信用していない。イタリア仕込みのネオリアリズムタッチを駆使しつつ、周到に日本的情緒を廃して物語を構築し、映画をカラカラに乾かした上で母(三益愛子)と息子(川口浩)の賭けを「あくまで賭けは、賭け。上手くいくとは限らないぜ」と締めくくっているように私には見えた。
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