[コメント] イマジン ジョン・レノン(1988/米)
行き場もなくすがるように自宅に現われたヒッピー青年とジョン・レノンとの、この遣り取りを記録しているだけで、この映画には意味があったように思われる。それはマスメディアに表象される、言ってみれば“「イマジン」のジョン・レノン”と、ミュージシャン・一生活者としてのジョン・レノンとの間の深刻な乖離を図らずも映し出してしまっているように思えるから。後年、ジョン・レノンを殺す凶弾の引き金を引くことになったのは、このヒッピー青年のように現実の中で行き場をなくし、“「イマジン」のジョン・レノン”に一縷の救いを求めたことのある男だった。
本来はミュージシャンであり、パフォーマーであり、言ってみれば一芸人でしかなかったはずのジョン・レノン。はじめ素朴な良心から発したであろう彼のパフォーマンスが、マスメディアの力と時代の風潮の中で誇大に喧伝され、いつしか一種の運動家のような存在としての「ジョン・レノン」のイメージ、その虚像だけが勝手に肥大し、世界を席捲していくようになる。その虚像と実体の間に否応無く生じていく、どうしようもない乖離。
おそらく、実体(一生活者)としてのジョン・レノンは、肥大し切ってどうしようもなくなっていた「ジョン・レノン」の偶像によって殺されることになったのではないだろうか(*)。世界の何処かで「ジョン・レノン」の偶像を信じて、言わばそれにすがりながら生きていた男が、実体(一生活者)としてのジョン・レノンに失望し、その反動として激しい憎悪を向けるようになる。それは強引に言ってしまえば、キリストとユダの関係に似ていると言えなくもない。わたし(ユダ)はあのひと(救い主・スターとしてのキリスト)をこんなにも愛してその言葉を信じていたのに、あのひと(生身のキリスト)はわたしを愛しては(顧ては)くれなかった。その失望と、そこから生まれる激しい憎悪。
もし、そんな行き場の無い青年が目の前に現われたらどうしたらよいか。その時は、「腹は(すいてるか)?」とでも声を掛けるしかないのではあるまいか。実体(一生活者)としてのジョン・レノンは、多分そういう(時に感情的で、時に自分勝手で、けれどまたふつうの哀れみをも知っているような)当たり前のひとであって、それ以外ではなかったわけで、そんなジョン・レノンの些細で何気ない言動を(“声”を)記録しているだけでも、この映画にはそれなりの意味はあったのではあるまいか。
ミュージシャンとその聴衆は、音楽を通じて一時だけその場を分かち合う。それだけでよいのだし、それで十分なのだと思う。音楽というのは、多分本来はそういうものだ。
*)実体を失った偶像としての「ジョン・レノン」は、メディアの中で拡大再生産され続けるイメージとして有効に“流用”されるようになる。その裏で実体としてのジョン・レノンは殺され続けることになる。
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