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[コメント] ワンダー・ボーイズ(2000/米)

グラディ(マイケル・ダグラス)は失ったことにより、失わなかった。それは、文豪を目指し茨の道に死する覚悟を捨て、作家としての自分の限界を認め生き延びる道を選んだということだったのかも知れない。
kiona

 ラストで吹っ切れたグラディだったが、その結末を、100%、ポジティブに捉えることができなかったのは、ポール・オースターの『鍵のかかった部屋』を読んでいたからかも知れない。

 紆余曲折を経て、タイプライターからパソコンへと、ハードの変化を手にしたグラディだったが、そのソフトの変化はどの程度のものだったろう?単なる心境の変化?それとも、作家として新たな力を手に入れた?

 そもそも、自分には、グラディが書けないのは、スランプだったからではなく、自身の才能に疑問を感じていたから、ズバリ言うと、才能が枯渇した状態にあったから、だったように見えた。そして、古い価値観に囚われていたのも、それ以外に自分には何も無いと感じていたから、なのだと思う。

 そう仮定した上で、例のグラディが抱えて込んでいた云千枚の原稿だが、果たして、彼は、それを、本気で大事に思っていたのだろうか?

 自分には、彼がそれを駄目な代物だと解って抱え込んでいたように見えた。というのも、女生徒にケチをつけられ、彼女の前では意地を張って見せたグラディだったが、彼女に見透かされる程度のことを自分で理解できないほど愚鈍な男ではない。そもそも、作家自身の読解力は作家自身の才能を、往々にして上回る。三流作家の読解力は、往々にして一流作家の才能を批評することができる。当然、自分の作品がどの程度のもなのか?という見極めもつくし、どういった作品が真に価値あるものなのか?を理解しているはず。その道に関する一流の感性とは、そういうもの…なのだと思う。早い話が、グラディは、あの云千枚が大した代物でないことを解っていたはずなのだ。

 じゃあ、何故抱え込んでいたのか?

 此処で、先に挙げたポール・オースター/『鍵のかかった部屋』の言葉を引用させていただきたい。

 「愛着があったからだ。でも愛着があるからといって、いい本になるわけじゃない。赤ん坊は自分のウンコにも愛着を持つ。でも他人から見ればただのウンコだ。それはまったく赤ん坊自身の問題だ。」

 ちょっと下品で申し訳ないが、作家のみに見える創作というフィールドの地平線と個々の作家の限界を端的に表したフレーズだと思う。

 さて、自分のベストセラーをしてこう評した作中人物ファンショーは、奈落の底に落ちていった。自分自身で、作家としての自分の限界を認め、見切りを付けなければならなかったからだ。

 では、グラディはどうだったか?彼は、あの(原稿を巻き上げられるという)ハプニング(=運命)によって、取り上げられた。つまり、“愛着を感じる自分のウンコ”に、自分自身で見切りを付けずに済んでしまった。グラディにとって何が幸運だったかと言えば、この点だと思う。取り上げられたことで、自分に対する半信半疑の信の方だけ残せたのだから。

 もう、申し上げるまでもないと思うが、自分は、あのハプニングにより、グラディが得たのは、作家としての新たな力だったとは考えていない。グラディが寵児だったのはあくまで過去のことであり、時々刻々と移り変わる時勢の中、今は、現在の寵児に羨望の眼差しを向けるのみである。

 だが、彼は、あのハプニングにより、そんな現在を認め、受け入れるための心境の変化を手に入れた。無論、此処からは想像でしかないのだが、彼が手に入れた心境の変化とは、歴史上の文豪に挑むような重たい役割は新たな寵児の背中に託し、自分は現在の自分の能力の範囲内で書けるものを書いていけばいいのだという開き直りだったのではないだろうか。

(評価:★4)

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