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[コメント] みんなのいえ(2001/日)

敗因は開放的な舞台、かな?
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 三谷の脚本というのはたぶん「閉塞感」と「限定条件」があってこそ真価を発揮するんじゃないだろうか。どうしようもない結論や狭い世界の中で人間たちを右往左往させたら右に出る者はいないんだろうけど、この作品に限っていえばそのプロット上の「縛り」がゆるかったせいで登場人物たちがいつもの三谷作品よりも自由に動き回りすぎてしまい、焦点がぼやけてしまった感があるのだ。

 たとえばそれは『ラジオの時間』においては生放送という時間的な縛りであったし『笑の大学』においては戦中の検閲制度だった。演劇時代に立ち返ればこの縛りの発現はもっと顕著で、「ショー・マスト・ゴー・オン」は進行中の商業演劇という設定と劇団座長の存在感という2重の縛りがあったし、「マトリョーシカ」はもっと複雑にいくつもの縛りが錯綜していたおかげで名シナリオと呼ばれる脚本になった。だが、本作の縛りは「あの頼りない田中直樹のいえが無事に建つかどうか」ということだけ。正直、観客にとってはどっちでもいいのだ。建っても建たなくてもシナリオとしては成立してしまうのだ。ショーはマストでゴーオンだったが、みんなのいえはマストではなかった。

 これまで、どんな豪華キャストを揃えても「脚本の罠」の中に絡め取ってしまっていた脚本家三谷幸喜の豪腕が、この作品ではまったく機能しなかったのだ。ま、多忙らしいし、たまにはそんなこともあるわいな。

(評価:★3)

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