[コメント] A.I.(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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それはまるで「ボクはスポーツも万能で勉強もできる特別な子供なんだから、愛を勝ちとる権利があるんだ」とでも言わんばかりの叫び。それが仲間たちと自分とを差別化する発言であることも知らずに。しかし傍らでそれを聞いているハズのロボットは何を語ろうともせず、表情一つさえ変えない。いや、きっとその瞬間彼らはスイッチを切られているのだ。「都合が悪いから」と監督に。
ロボット同志の交流や、少なくともロボットたちに助けられたからあそこまで辿りつけたという「事実」を目の当たりにして、コチラとしてはきっと彼らの中には生気が宿り始めているんだ、と思いながら見守る。少なくとも自分はそう見た。ロボットがロボットに徹し切れてない描写の甘さは、「きっとコレはファンタジーだからだ」と。しかしそんな思いも上記のクダリで見事に裏切られる。「卑怯者!」と画面に向かって叫んでやりたくなった。
ここでひとまず「SF」と「ファンタジー」を個別に考えてみるにあたっての、便宜的な定義を(あくまで個人的見解)。SFとは科学の可能性を思いのままに広げて作り上げられた「虚構(フィクション)」の上での物語。しかしその物語はコチラからみれば非現実的であっても、その「虚構」の中に生きる者たちにとってはどこまでも現実の話なのだと思う。SFファンの方々が設定や辻褄に拘るのは、そういうことではないのかと。もしそこに「虚構」の世界の辻褄ではカバーできない要素があえて加えられたとしたら、その時はじめてSFはファンタジーという要素を孕むのだと思う。SFファンタジーってヤツですか。例えば数年後の現代にUFOやエイリアンが現れるという筋書きにおいては、「近い将来UFOやエイリアンに遭遇する場合」という虚構が元々の前提となっているので、あえてコレをファンタジーとは言わない、みたいな。
さてこの話はどうだろう。未来の科学者たちは、限りなく人間に近いロボットの可能性はほのめかしてはいるけど、ロボットはあくまでロボットで、生気が吹き込まれることなどは想像の範囲にも入ってないようだ。もしこの物語でロボットたちが心を持つに至っているのだとしたら、この物語にはファンタジーの要素が含まれていることになる。しかし個人的には既に述べた理由や、テディと少年の遣り取りでもしばしば見られる同じような違和感のために、これがファンタジーだとは思えない。少年自体も母親の愛を得る以外のことで、これといった反応を示そうとしない(高性能どころか)至極単純なロボットにしか見えない。
それではSFとしてはどうか。今まで述べてきたファンタジーとも言いかねるひどく曖昧な要素があることはもちろんのこと、未来世界の虚構としても稚拙さが目立つ。例えば少年の引き取り先と街の様子が、一つの時代や空間で繋がっている世界のようには見えないというのがある。加えてコレは友人に指摘されてナルホドと思ったのだが、引き取り先の家の細かい描写や設定に現代としか思えないものが散見されるという点。確かに綻びだらけの未来の意匠の隙間から見えてくるのは、紛れもなく現代の生活そのもの。これはもうSFになりきれてないSFらしきもの、としか言えない。
おとぎ話としての筋書きやテーマの不可解さについては、すでに多くの方が説明されているので省きます。ともあれ、自分にとってはひどく居心地の悪い映画。それはエゴの醜さ(というかそれぞれがエゴとして認識しようとしない怖さ)ということもあるが、それ以上にSFやファンタジーという夢を見ようにも、断続的に夢を覚まされる不快感。しかもかなり無粋な起こされ方。ここまで寝覚めの悪さが続くと、悪い夢でも見ているような気分にさえなる。
ともあれスピルバーグの想像(創造)力は『未知との遭遇』のマザーシップ(の外)止まりらしい。そこから始まり無限に広がる物語なんて彼には到底手に余るようだ、というのを再認識してしまった。
(2002/9/1)
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