[コメント] もののけ姫(1997/日)
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アクションのベクトルは、その多くが「下降」や「地に平行」である。一見疾走感のあるサン・モロ、アシタカ・ヤックルのペアのアクションはしかし、「丘陵を駆け下る(逆落とし)」といった「重力」の力を借りたものであって、向かう先はあくまで「下方」である。そして、あからさまに「落下(墜落)」というアクションが目立つ。「飛翔」がついに行われることはなく、「跳躍」がそれに準じる、という評価も、どう好意的に見ても支持出来ない。
「上昇」「飛翔」が禁じられている、という事態は宮崎氏のフィルモグラフィ上からすると明らかな「異常事態」なのだが、「重力」に注目された破壊的なアクションは、明快に「生の重み(業苦)」と結びついていて、これがかなりキレがある。この「キレ」は表現の必然性だけでなく氏のフェティシズムによって強化されており、「憎悪を憎悪する」という矛盾に苦しみながら、かえって破壊に溺れているという氏の自覚が垣間見え、これはもはや異常ではなく、正直かつ真摯なアクション表現であると思う。それは、猪神に祟られ、暴力を内包するオニの腕をもって人を殺めたり救ったりするアシタカやシシ神の「与え、殺す」という二面性にも重なり、内包された暴力をぶちまけ、一方で抑制しようとする表現はまことに現代的。むしろ21世紀にこれに類似するテーマの作品群より先行して提示されたのは、注目すべき点であると思う。
また、エコロジーとその敵という単純な二項対立ではなく、森の民の側もシシ神を護るために集結した猪神たちが森を食い荒らしたり(モロの言及によりそのことがわかる)、人間側もタタラ場・地侍・石火矢衆・唐傘連(中央)のせめぎ合いで一枚岩ではない複雑な勢力構図が現代的。二項の「対立」ではなく、全ての主体が二面性を併せ持つ描写も徹底されており、両性を具有し母でも父でもある印象を残すモロ神の声優に美輪を充てたのは会心のキャスティング。各勢力がシシ神の聖域(世界の中心)に集うクライマックス、均衡が崩される瞬間には正直興奮を抑えられない。このシーンに物語をいたらしめた氏の世紀末的呪詛は、実際のところ狂っているというより真摯なものに見える。
ただ、祟りながら、祟られながら、生きるしかない。生きるという行為そのものが何かの死と不可分であるという「呪い」を背負っている。それでも生きる中で足掻きながら光を見つけようとすること。そして何もかもを否定しないこと。
アシタカの体からタタリの痣が完全に消え去ることはない。それは『ナウシカ』において、彼女がまとう衣の全てが青く染まったわけではなかったこと(描かれた紋章の中心部だけ「赤」が残っている)を思い起こさせる。この表現もまた的確と言わざるを得ない。
ラストについて賛否両論あることは当然と思うが、私はシシ神が人を許したようには見えない。例えばシシ神がアシタカに命を与えた理由は「生きて苦しめ」というメッセージだったわけで、遂に世界の中心たる古の森が消え、新たな混沌に放り込まれた人間たちに投げかけられた「いきろ」というメッセージは残酷きわまりなく、また真摯であるように思える。
・・・ただ、御託以前に、どうもフェチなアクション描写に酔ってしまう。矢の飛ばし方とか尋常じゃない。容赦ない台詞の応酬も痺れる。飄々として破壊を眺めるリアリストのジコ坊(アクティヴなヴ王(ナウシカ原作)のような印象)、モロの眷属、とりわけモロの息子が何故かどうにも気になってしまい、「・・・遅い!乗れ!」というほとんどどうでも良さそうな台詞で胸が熱くなる。
サンとエボシの声優については、毅然とした佇まいの二人が、ともすれば業苦に心を折られる弱さを隠している、というコンセプトで採用された二人なのだろうと思うが、キャラ的に相似関係にあるクシャナ妃の声を充てた榊原女史でもそれは難なくこなしたであろうと思われ、石田ゆり子について言えば、敢闘しているとはいえミスキャストと言わざるを得ない。御大の理想の女性を表現してきた島本須美はおトキの声を充てているが、「生きてりゃなんとかなるさ!」と明るくテーマを集約する啖呵を切らせるあたり、一見脇役に見える彼女が最も重要な人物と言ってもいいのかもしれない。
余談。コダマをマスコットとしてプロモーションしたり、CMに満員御礼と表示したセンスは最悪と思う。御大はアレを見てどう思ったのだろうか。
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