[コメント] 帝銀事件 死刑囚(1964/日)
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処女作がこれなのだから恐れ入る。邪魔になるはずの説明のナレーションが、帝銀事件裁判の欺瞞性を色濃く炙り出す補助となりストイックに全ての引き立て役に徹し切れていたので私はズブズブに作品にのめり込めた。
しかし『事件記者』のパターン、展開、人物設定を“まんま”取り入れた手法は、やや芸が無く、やや楽したなと思わせる。
けれどもそれは、事件の内面と外面、言論の自由の背後にあるものと、それに惑わされる没個性の大衆をも表現しようとすると、必然的にその手法に辿り着くので、致し方ないのかもしれない。情報を遮断されて不安がつのる一般大衆心理と米国に首根っこを捕まれている日本政府の心理。それらとそれらの隙間に関わりを持つことが要求される新聞記者の葛藤と背負わされる無力感。相関関係を作るとそれを用いた意図、納得である。
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この後に起きる、歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さなかった出来事を思うと、それを取り入れて欺瞞のさらなる強調を固定できたのにと感じ少しばかり映画化に踏み切るのが早かったのかとも思える、が、それは野次馬根性の人間の卑しい贅沢と言える。この1964年だからこそ作るべきだったし、産まれてきたのだと思うと、熊井啓の運の良さ、映画運というのが恵まれているのだというのがわかるのではないだろうか。
17度の再審請求、3度の恩赦願は受けいられず、肺炎で獄死してこの世を去られた平沢氏のご冥福を祈ります。そして死刑制度が無くなることを私は望む。
2003/8/5
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