[コメント] ムーラン・ルージュ(2001/豪=米)
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素材も観客も全て俺の脳髄に支配されるがいいと言わんばかりのバズ・ラーマンの所業には吐き気がする。
特に序盤の空騒ぎっぷりには心底呆れた。許し難いのは、その学芸会レベルのシーンに"Smells Like Teen Spirit"をあんなアレンジで挿入したこと。以前YouTubeで、ポール・アンカがこの曲を、お気楽な調子で愉しげに歌っている動画を見て張り倒したくなったことがあるが、その時の憤りに似たものを感じさせられた。"The Sound of Music"や"Material Girl"などには特に思い入れは無いのだが(『サウンド・オブ・ミュージック』も未見)、ああいう安易な引用の仕方には嫌悪感を覚える。"The Sound of Music"なんて、単に「良い曲」を表す記号として都合よく使われている印象で、この曲自体に何の思い入れも敬意も抱いていないのがヒシヒシと伝わってくるのが鬱陶しい。
ヒゲオヤジのジドラー(ジム・ブロードベント)が、白い布で花嫁の振りをしながら歌い踊る"Like A Virgin"など、殆ど悪夢のようだが、むしろここまで突き抜けてくれた方がいい。「観客の皆さんにもお馴染みですよね!」という馴れ馴れしさで使用するよりは、原曲のイメージを壊すくらいにこの映画自身にも力を振るってもらいたい。
編集段階で全ていいようにコントロールしまくった幼稚な演出には腹が立つ。役者は皆、血と肉で出来たアニメキャラのような人形状態。ニコール・キッドマンが高級娼婦サティーンを演じる様も、ゴージャスで弾けた役柄を真面目に演じているのはよく伝わるが、役柄に備わるキュートな軽薄さや、その裏にある不幸が、「上手な演技」を超えた存在性として立ち現れることはない。ショーのスターを演じても、豊満な色気で幸福感を撒き散らすことは適わず、嬌声を上げて床を転げまわっても、公爵(リチャード・ロクスボロウ)の前で取り繕う為に、皆と歌い踊っても、その細身の体が懸命に画面の隙間を埋めようとしている痛々しさが際立つ。まぁ『嫌われ松子の一生』の中谷美紀の悲惨に比べたらまだマシだが。
終盤は、その肉弾アニメ的な力業がシリアスさに舵をきったおかげで、それなりのパワーが生まれた。サティーンと公爵がベッドを共にしかけるのとクロスするタンゴシーンの、暗い熱さとか。世間知らずのヘボ詩人(ユアン・マクレガー)が子供っぽい怒りに任せて舞台に乱入するシーンなど、ホントにウンコレベルの痴話喧嘩に過ぎないのだが、客席中央から立ち去ろうとする彼をサティーンが歌声の力で引っ張り戻そうとする様が、幾らかは感動的。これらのシーンでは、歌の力によってドラマそのものを牽引する演出が明確な形で発揮されていたからだ("Like A Virgin"のシーンも)。他は、"Your Song"のシーンですらまだどこか空々しかった。
全篇に渡り、よく世間に知られた素材を表面的かつ記号的に引用し、物語そのものも、既存の分かりやすいそれを借用する形で使用。他人様から養分を吸い取ってお気楽に浮かれ飛ぶモスキート野郎。どうせ"Smells ..."を聴いてもカート・コバーンの声に含まれる暴力的な響きは脳内でカットして、イージーリスニングな感じで聞いているに相違ない。
そうして観客に媚びる一方、カットはバサバサと切りまくって、観客が全く受動的に、カットの瞬間的インパクトに打たれるままにしようとする。ここまで観客にバカになれと強いる映画もなかなか無い。これなら中島哲也の、不健康な人工着色料たっぷりのミュージカル映画の方がまだ幾らかマシとさえ思える。
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