[コメント] リリイ・シュシュのすべて(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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岩井俊二は正直言って嫌いだった。というより嫌いな予感がしたので食わず嫌いに近い。
PV調邦画の風潮の中心にいると感じたし、その作風の根底にプロデューサー岩井俊二としてのコマーシャリズムを感じてたから。
だけどこの映画間違いなく作家岩井俊二を感じた。見終わった私の心に波紋を広げそれは拡大していった。
思春期の残酷さが、映像と音楽によって美しい郷愁さえ漂わせ、胸を刺してくる。針には返しがついていて痛みは抜けない。繰り返し流されるリリイシュシュと美しい象徴的な風景が、残酷で、どんよりして、暗闇を作り出しては迷い込んだあの頃の自分を時代と場所を越えて煽る。
あの頃私は自我に目覚め、何者かになろうとしていた。強くなりたかった。スマートでありたかった。人に好かれたかった。他人を気にした。価値観が目まぐるしく変わり、あらゆる疑問をもち続けた。恐ろしく傷つきやすく、そして簡単に人を傷つけた。
星野は変わった。思春期という剥きだしの人間性がぶつかり合う狭い世界で、強さが最優先事項の価値観となった。あの時代に確かに存在する剥きだしの力関係の支配を選んだ。沖縄での出来事や過去へのコンプレックス、家庭の事情など原因らしき物があったが、あの頃の心の激しい揺れに理由は大した意味を持たないし、理屈で説明して他人を納得させられる代物ではない。あの時代のパワーは、ささいな積み重ねとつまらないきっかけで十分暴走できるものだ。
星野の歪みは感染し、壊れやすい彼等は、ヒビの連鎖反応で壊れた。あの時期よくある事だ。結局皆傷つくのに。
エーテルだの何だの繰り返される専門用語と仮想社会に陶酔する住人達に対してはくどさがあるものの、私は意外と寛容だった。あの意味ありげな大量の言葉も、生活に浸透するネットと割り切って上手く付き合えない者が出てくる事も、ほんの数年前までネット社会に偏見を持っていた私の青春時代には見当たらなかったが、若者にとって、ネットが私達に影響を与えていた何かの存在同様、あるいはそれ以上の存在であろうことは理解出来る。現実と混合する者も含めああいうネットの在り方は珍しくないと思う。バーチャル世界が彼らにとってリアルなコミュニティーになってしまい、リアルな価値観となってしまうのだ。
インターネットや援助交際といったいかにもな素材は鼻につくかもしれないし、描き方が断面的かもしれないから色々な意見があるでしょうが、私はまんまと時代性を感じたし、思春期の暗い部分を表す道具として成功していると思った。ネットが日常的な巨大文化となった今、多分ネットそのものがこれからどんどん語られるテーマとなる時代だと思う。
ネットや歌手に限らず依存するものが、誰にだってある。人は節度を守ってそれらと付き合って行くが、現実との境界線が曖昧になってしまう可能性を誰が否定できるのか。やがて自分の居場所を見つける唯一の場所となってしまう可能性を誰が自信を持って否定できるのか。ましてや、あの時代の人間にとって。
星野と蓮見はネットとリリイシュシュに依存していく。そこでしか暗闇を表現できないし、救いを求められないし、リアルだから。
暗黒の連鎖反応に毅然と反抗した久野。その強さを見て涙する津田は自分の弱さからの脱却に飛ぶことを選んだ。リアルな死に触れた蓮見は現実世界に戻り、代々木で彼は暗黒からの脱出手段に最悪の選択をした。リリイシュシュの前で自らエーテルを汚して、フィリアは皆の前から姿を消した。彼のリリイシュシュは終わった。
救いの無い話で、人の記憶の深い所、奥に隠れた痛みの部分をえぐってくる。強烈な痛みと同時に私は切なかった。人は年を重ねて道理を知り、割り切って、疑問を持たなくなる。現実に根ざした事を考え、人の世のシステムを今日も上手にクリアする事が人生となり、そして慣れる。あの頃のような非生産的な疑問と価値観は、せいぜい生活に支障がないように上手に引き出しから出して余暇に弄ぶ程度だ。
傷つきもがきながら生きてきたあの頃を思い出すと、切ない。忘れていた感情がこの映画で蘇った。私の青春時代のドロドロだった部分。青春時代の裏のドロドロした気持ちを突きつけられたショックは大きい。
凝り固まりたくない、疑問を持ち続けたい、無駄と思える思考を止めたく無い。私の心に刺さった針は波紋を広げている。今よりあの頃の自分の方が余程哲学者だ。
市原隼人も忍成修吾も伊藤歩も蒼井優も素晴らしかった。痛みにもがく姿を見せてくれた。特にこの映画は星野が叫ぶシーンが良かった。又、彼の叫びは絶対必要な映画なのだ。単にいじめられる苦しみの映画ではないから。彼の闇は強烈ないじめとして現れたが、彼も又、感受性の時代の被害者である。
『タランティーノ』もチョイスしたリリイシュシュの歌声も良かった。作り出されたリリイシュシュの幻影に群がる依存者達のシーンで流れる静かな曲は、仮想の宴の滑稽さと、信仰の終焉と、今後永遠になくならないであろう誰かにとってのリリイシュシュ的存在の悲しさを感じることが出来て、とても切ない。
エンディングロールは終わりまで見た。田園でリリイシュシュを穏やかな表情で聴く蓮見、星野、津田は残酷な時代にひっしにもがき続けた戦士のようで、兵どもの夢の後のごとく美しかったし、カッコ良かった。私は痛みと切なさに耐えながら、美しい映像と美しい歌声に酔った。
残酷な時代を想い起こす時、痛みと共に甘美な切なさで強烈な郷愁にふけさせてくれる作品だ。
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