[コメント] 息子の部屋(2001/仏=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ジョヴァンニは冒頭、ランニングの最中に遭遇したインド人の踊りに釣られて自分も家で歌っているが、半面、精神科医としての仕事場では、眼前に居る患者に対し、本当には向かい合おうとしていない。それが息子の死で、一気に患者との距離が失われてしまう。この事は、医者としての誠実さを欠くほど患者との距離を置いていた彼の態度の反動とも思える。
だが、息子に距離を置かれるようになっていたジョヴァンニは、最後の診察の場面で、実は患者からは必要とされていた事が分かる。その一方、息子の亡くなった日に往診に行った患者は、体の治療に専念したいと言って、カウンセリングを止めるのだ。前者では、ジョヴァンニは、それまで意識していなかった他者との繋がりを確認し、後者では、息子の死の時から停止したようなジョヴァンニに、死と直面した生の、前へ向かう姿勢が示される。
化石の盗難事件にしても、テニスに身が入っていない事にしても、息子アンドレアは、死の前から既に半ば家族から離れ、喪失されようとしている。友人たちと出かけて水難事故に遭う、という亡くなり方にしても、家族とは切り離した時間と場所で起こる出来事だ。片や、父は、息子が逝く海の傍から電話をかけていたりするのだが、このショットからも、傍に居ながらも息子は親離れしようとし、反対に父は子離れし得ていない様子が汲みとれる。
亡くなった息子に届いた恋文の差出人の少女、アリアンナ。アンドレアの死で時間が停止した一家の前に、唐突に姿を見せる彼女の、‘新しいボーイフレンドと一緒にヒッチハイクをしている’という‘軽さ’が、現在進行形で流れゆく時間の存在を実感させる。単にボーイフレンドを連れているだけでなく、ヒッチハイクの途中で通りがかったから立ち寄った、という点が肝心だ。彼女にとって、アンドレアも、その家族も、人生の一瞬の中の、一つの通過点であり、それ以上でもそれ以下でもない。
車を拾えずにいるアンドレアたちを、車に乗せて送り届けるジョヴァンニ。彼は言わば、アンドレアにヒッチハイクされた訳だ。後部座席では、疲れた二人が眠る。娘も眠る。運転するジョヴァンニと時間を共有せず、自分自身の安らぎの内にある、若い三人。ジョヴァンニが彼らを起こさず、妻に「君は眠るなよ」と笑いかける辺りに、夫婦で共有し合う時間の存在と、娘たちは娘たちでそっとしておこう、という気持ちの切り換えが感じられる。
朝、目を覚ました娘イレーネが、「今日は初めての復帰試合なのに!」と慌てる台詞も、アンドレアの死から来る苛立ちで反則を犯した事による一時停止からの、再始動を告げている。だからこそ、この娘の言葉に、夫婦は朗らかに大笑いするのだ。
当初、アンドレアの母パオラは、息子の最後の時間を知っている筈のアリアンナに会いたくて堪らなかったのだが、実際、アリアンナが持っていた息子の部屋の写真は、彼女が、一家の知らないアンドレアを知っていた証しだ。この写真でアンドレアは、他では見せた事の無いような笑顔をしているではないか。‘息子を知っている’という点では、母の望み以上に、家族の知らないアンドレアがそこに居る。
そして、他ならぬそのアリアンナの時間は、一家とは関係の無い形で、先へ先へと流れ、また流れ続けているという、当然の真実。映画のラストカットは、遠ざかるバスの車内からのアリアンナの視点で、海岸の一家を見届ける。これはまた、アンドレアが家族を見守りながらも別れを告げる眼差しのようでもある。
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