[コメント] 蒲田行進曲(1982/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
いじめられなければ、ヤスはヤスでいられない。いじめなければ銀は銀でいられない。支配されることに徹底することで支配中毒の銀を支配するヤスも、支配への依存によってヤスに支配されている銀も、本質的には似た者同士であり、ほとんど区別できない。
小夏がどちらの楔にもなり得たのは、自然なことだったろう。しかし、一人の女として小夏がヤスに尽くしたことで、このバランスが崩れる。ヤスが小夏との結婚を成功させることは、ヤスから銀への「復讐」の実現であったかもしれないが、決定的には、小夏との安寧による立場の逆転は「男と男との失恋」をもたらしたのだ。愛というのは一種の中毒・依存症状でもある。銀なしにヤスは生きていけないことを痛切に感じ、禁断症状にとらわれたヤスは銀の窮状を見て究極の手を打って出る。
しかし、その「階段落ち」もまた、どちらが欠けてもどちらかのアイデンティティが喪失する状況下では、決定的なリスクを孕んでいた。映画と銀に殉ずることが、自分を殺すことに、つまり銀のアイデンティティを殺すことにもつながってしまうという葛藤がヤスを引き裂いていく。しかし、先に述べたように銀に対する復讐願望もヤスの心の片隅にはあったろう。更に小夏と子どもの問題が立ちふさがる。銀への愛がもたらす小夏への憎。小夏への愛がもたらす銀への憎。ヤスはあらゆる愛憎・加虐と被虐に何重にも引き裂かれているのだ。
だから、「銀ちゃん、かっこいい・・・!」という台詞は決して一本調子な「愛」の表明ではない。殉ずることで復讐する手段でもあるのだ。自虐でありながら自己陶酔的で、可加虐的だ。瀕死のヤスが這い回る活力は一途さでもあるが、幽鬼のような様から強烈な憎悪と自死による復讐の快感を読み取ることも出来る。愛も憎もさしたる変わりはないという証明である。そして、その是非はどうあれ、この混沌とした極端が力強い画面に宿ることこそ、私が映画に求めるものです。
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一貫したいかがわしさ、そして臭いの演出。意図的に無臭演出を施した場合を別として、「臭い」がしない映画はまずダメ。で、これは思いっきり「くっさい」映画である。汗が染みこんだ万年床の、生ぬるい雨が降り込んで腐った畳の、ドーランの、ニンニク臭い吐息の、そして包帯の血の臭い。一貫して猥雑な臭いと狂騒がサドマゾの凄惨な蜜月を助長するが、そんな中にとつぜん倒錯した幸福がきらめくのである。
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「銀ちゃん・・・かっ・・・こいい」は置いといて好きなのは次のくだり。
銀四郎「何がわかったの。ほら行っちゃうぞ!」
小夏「女にはね、なによりもね」
銀四郎「止めねえのか小夏よお!」
小夏「いつも一緒にいてくれる人が一番なのよ。銀ちゃん一緒にいてくれないじゃない!」
銀四郎「止めねえのかって聞いてんだよ。お前、俺の背中に浮かんでる孤独の孤の字が読めねえのかよ」
小夏「読めるわよ。でも止めるわけにいかないのよ」
銀四郎「後悔すっぞ!」
小夏「後悔するわよきっと!あたし、後悔するわよ!でも、さようなら!」
銀四郎「勝手にしろ!」
この松坂慶子はガール度超高いと思う。演劇調も後押ししている。
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