[コメント] マッチスティック・メン(2003/米)
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そこいらの三流監督と違うがキューブリッククラスにはちと及ばないリドリー・スコットほどの男が、こんな使い古されたどんでん返しを真顔でやったというのも考えづらい。尺を考えると非常にアンバランスということになるが、それでも、スコットが描きたかったのはむしろどんでん返しの後だったのではあるまいか? これがただのクライム・サスペンスだったとすれば、偽の娘との邂逅はもっと茶番劇然としたドタバタになった筈と思う。やはりスコットはラストを以て、何かしらをうたおうとしたと考えるのが妥当だろう。そう考えればこそ、詐欺師という題材を天動説的に描く作劇にも一理を見出せるというものだ。
詐欺とは極論すれば、世界を欺くことであり、言い換えれば世界から自分を切り離し、対等の関係を築き、常に両者の関係を意識し続けることだ。天動説的な視点は詐欺師という題材が端から含有しているのであり、その無謀な世界に対する提議付けと崩壊がああいったどんでん返しに帰結するのは作劇上の必然と言えなくもない。或いはそこから「胡蝶の夢」に近い感覚が産み出されるのも自然なことかも知れない。
また、詐欺とは「人生を支配しようとする」行為とも言える。ネタを広い、シナリオを書き、その役割を他人にまで演じさせ、自分の人生を自分の思い通りに動かそうとする行為に他ならない。神ならぬ身には余りに無謀な所業である筈なのだ。そう考えると、本気でそれを行いきろうとする人間が潔癖性とその葛藤・苦悩を抱えているというのも実に有機的に見えてくる。
というわけで、「人生を支配しようとした」男の顛末は、見てくれのどんでん返しとは裏腹に、極めて必然的な崩壊に帰結し、男は「自分」と「世界」の再定義を迫られる――何が真実で、何が嘘だったのか?
自分から偽り、他人からも騙されていた嘘だらけの人生がクラッシュした後、主人公は偽の娘と邂逅した。その時、彼は怒りを感じたかも知れないが、それ以上に、あの時の二人の関係が真実であったなら――そう思わずにいられなかった。その時、彼女は彼が自分の現在を壊してしまうことを覚悟した。だが、彼から逃げずに向き合った。どこかで、彼を信頼していたからだ。偽の娘だったが、偽だったことへの哀しみを自覚することで、彼は「娘への想いが真実だった」ことを自覚し、それでよしとした。そんな偽の父の想いを知った彼女は、安心する以上に、嬉しかった。彼女もどこかで彼を慕っていたからだ。瓦礫から拾った本当に小さな真実、だから、二人は父と娘の幻想を共有したまま別れる。
寄る辺無き身の孤独と他者への渇望が仄かにうたわれていたように思う。
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