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[コメント] 風立ちぬ(2013/日)

本作は凄まじく中途半端な作品だ。でもそれこそが本作の素晴らしさでもある。好き放題映画作る楽しさに溢れてる。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 基本劇場アニメを中心にやってきた宮崎は、おそらくは日本一ドラマを作るのが上手いアニメーション監督だ。映画を作るに当たり、一時間半から二時間で出来ることは限られるのだから、まずドラマを作り、それをつなぐようにストーリーを挿入する。それを確立したのが日本のアニメーションであり、その最先端にいたのが宮崎監督だった。実際これまでの監督のフィルモグラフィ見ても、ほとんど全てドラマ中心に話は展開している。それが自分自身の得意分野であると言うだけでなく、それこそがアニメーション作品であると本人も強く感じているのだろう。

 宮崎監督自身、自分の得意領域がストーリーではなくドラマにあることは重々承知だと思うのだ。だが構造的にそうせざるを得ない作品を作ることになり、どう作るかを悩んだのではなかろうか?(推測だけど)その結果として、堀越の夢というパートを作った。この幻想的な描写は、監督が真の自分の領域に作品を引っ張っていくために必要なものであり、現実的な描写ばかりの中、何を考えてるのか分かりにくい堀越の内面に踏み込むために必要なものだった。現実世界では中々上手くいかない心の鬱屈を、夢の中でカプローニと出会うことで、内面的なドラマチックさを演出している。それと、菜穂子との部分的な物語も又、ドラマ部分を強調するには役立っている。

 だが、本来実際の堀越の行動を補完すべきその幻想的なパートに力入りすぎ、結果として、その部分だけしか印象に残らない。実際、実際に堀越が現実に目指すのは、「美しいもの」という漠然なものであり、その美しいものが何であるのか分からないまま話は展開するので、観てる側が取り残されたまま物語は進んでいく。

 強いて堀越にとっての美しさと言うものを考えてみると、一つには機能的な機構を持つ飛行機と言うことになるだろうし、もう一つには菜穂子の存在と言うことになるだろう。確かにこの二つの美しいものを並行して描くことで物語は展開しているのだが、映画を観れば観るほど、堀越にとっての美しいって何だろうか?という思いにさせられていく。

 まず、機能的な飛行機というもの。確かにそれは堀越が設計した零式という傑作戦闘機に結実していくのだが、堀越の夢の中に出てくる飛行機は全く機能的なものではない。むしろあの夢で描かれる飛行機は遊覧船のようなもので、みんなが楽しく乗れるものを目指したもの。大きくここで美しさに幅がありすぎる。空飛んでりゃ何でも美しいと思ってるんじゃないか?と思わせられてしまう。この意味において、夢の世界は全くの蛇足でしかなくなる。

 そして菜穂子との恋愛についてだが、確かに画面に出てくる恋愛模様は初々しいし、美しいものになってるだろう。でも、その美しいものを得るために菜穂子に強いた痛々しい努力を堀越は認めていたのだろうか?結核で少しずつ衰えていく自分の体を知った菜穂子は病を押して結婚式を行い、結婚してからも、夜のほんの一時一緒にいるために毎日化粧までしてる。それは彼女の方が、堀越は「美しいものが好き」ということをよく知っているからではなかったか?だからこそ、病に冒されていない美しい自分を見てもらいたい、そんな思いがあったのではないか?そんな菜穂子の努力を、堀越は、彼女の自由意志と割り切り、「もうこれ以上あなたの前で美しいままではいられない」と別れていく菜穂子を追いかけもしない。はっきり言って、堀越には優しさというものが欠如している。結核を患う妻の前でタバコを吸うシーンとか、菜穂子に全然優しくないと言う妹の詰問に「僕たちは今を一生懸命に生きている」とお茶を濁すようなものの言い方をするだけで終わらせている。

 これらは画面の美しさにスルーしそうになることばかりなのだが、それらを剥ぎ取ってみると、結局は矛盾に満ちた堀越の内面と、その身勝手さだけしか見えない。

 正直、その点に関しては全く同意できないし、この作品の酷さかと思う。

 だけど一方では、「宮崎監督、やってくれたな」と、思う気持ちもある。

 こんな勝手な、矛盾だらけの人間を、やっと主人公に出来るようになったか!と、むしろ安堵した。本当に宮崎監督が描きたいものを、やっと出せるようになったのだ。

 そもそもマンガ版「風の谷のナウシカ」で、最後の方のナウシカの姿は勝手極まりないもので、アニメ版を経て完結したマンガ版の物語の終わりの展開は唖然とさせられるばかりだった。でも凄まじく面白い。それでこれが宮崎駿という人間の思いなんだろう。と思ったものだ。

 それから二十年。その間、宮崎は子供のための物語を作り続け、本人の本性はともかく、あたかも自分自身を素晴らしい者として外に見せようとしてきた。宮崎と言えば“子どもに優しい”存在であり、“エコな”存在である。と言うことを繰り返し映画として作り続け、それが一般認識にまでなってしまった。

 そんな宮崎が、その虚像の自分自身をやっと放棄して、本当に自分の作りたいものを作れるようになったのだ。これこそが映像作家のあるべき姿だ。そもそも作り手が前提条件として持っていなければならなかった(と本人が思いこんでいた)、視聴者へのサービス。そんなもんをかなぐり捨てた、エゴ丸出しの作品を作って欲しかったからこそ、この作品は評価できる。

 いいんだよこの人は。もうそれを作る資格を得ているんだから。好き放題に作って、それで自己満足できるような作品を作ってくれて。それを目の当たりに出来た事で、私自身も満足できた。よくぞこれを作ってくれた!と言う賞賛を与えたい。

(評価:★4)

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