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[コメント] マンダレイ(2005/デンマーク=スウェーデン=オランダ=仏=独=米)

自由の幻想。
くたー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







正直なトコロ、骨組み舞台の手法の面白さは、前作よりも一歩後退している気がした。見えないドアや壁を意識したパントマイム的演技の繰り返しや、室内の営みが可視であることなど疑いもしない背景の人々の日常描写が、前作ほど執拗には描かれていない。そのような描写が執拗に繰り返されていくうちに生み出される心的なリアリティ、不可視なものが心の目で見えてくる、その効果の面白さ。前作を見ている人なら、このセットの「見方」が分かっているのであえて省略したのかもしれないが、単体の映画としてはやや弱い気も。

ただ個人的には、前作よりも興味深く観れた。というか、物語に入り込み易かった。人として陥り易い奢りや誤算を描いていることでは共通しているが、前作では目に見えない「神」の存在が愚かな人々を静観しているかのように思えたが、本作ではその不可視な存在を「自然」として置き換えることができるからかもしれない。

最終的にグレースは欺瞞と打算に支配されたマンダレイの人々を忌み嫌い、自由を声高に連呼するが、ではその自由とは一体何なのだろうか。体内に備わった時計や、砂嵐から身を守る術や、祝福を告げるツバメの到来。彼らは抗い難い大いなる秩序の中に、今自分たちが身を置いていることを肌で知っている。そして、怒りや憎しみといった、人間の愚かな感情をいかにしてコントロールするか。その方法に始めは嫌悪を感じるかもしれないが、彼らは秩序を設けることで、感情に支配される前に感情を支配することを選択したのだ。あの法を作った人間は愚かでも何でもなく、感情に身を任せることの危険性を始めから知っている。感情や欲望に身を任せたことで己の愚かを身をもって知るグレースとは対照的に。

彼らのやっていることに対する嫌悪感。人々を一から七までのカテゴリーに分類することが異様に映るかもしれないが、一方では人にある種のレッテルを貼ることが、そんなに特異なことなのだろうか、という気もする。実際グレースも誤った先入観で数々の過ちを繰り返している。おそらく人々を分類する手段そのものに嫌悪を抱くのではなく、普段何気なしに誰もがやっていることを、あまりに露骨なカタチで提示されたことによる嫌悪感なのではないだろうか。彼らに嫌悪することは、自らをも嫌悪することに過ぎないのだ。おそらく多くの人が忌み嫌うだろう「ママの法律」というものの一部は、人間というものに対する不信や失望を前提として、それでも生きる術を模索した結果創り上げられた掟(=秩序)。それを「悪」というべきか、正直自分には分からない。

その彼らが外の世界で、「どのように生きればいいのか分からない」と、戸惑いを隠せないのもある意味無理もないと思う。無邪気に人を、世界を信じることのできない彼らにとって外に出ることは、「一から新たな秩序に身を適応させる」ことに過ぎないのだから。そして外の世界は、マンダレイという小さな世界以上に、より複雑な様相を呈している。空腹が生む目に見えて切迫した問題よりも、満たされた世界が抱える問題の方がより複雑で、奇妙で、不可解なのだから。

もう一つ特徴的なのは、グレースの扱い。前作の無垢な存在から次第に一人の人間として覚醒していくことで、こちらも次第にグレースの立ち位置でモノを考えることができる。多くの人は、「自分がグレースだったらどう判断するだろう、どう行動するだろう」と、自然と考えながら観ていたのではないだろうか。少なくとも自分はそうだった。そして監督は、グレースと観客が否定し、嫌悪することが、物語が進むにつれ、全てその嫌悪が自らに向けられるような罠をしたたかに、そこかしこに仕掛けている。そしてティモシーの一言でついに我を失ったグレースのムチは、その理不尽さゆえにもはや何に向けて振るわれているかすら分からない。ラストで一気に反転させるシンプルな構図の前作に比べ、よりその企みは周到になってきている気がした。

(2006/11/3)

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)IN4MATION[*] moot グラント・リー・バッファロー[*]

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