[コメント] おくりびと(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
●映画の中盤に於いて、
まるで楽器を弾くかの如くの繊細な手捌きで、
遺体を清め、
またその反動として、
生きている事の歓喜と感謝として美食を嗜む、
それらの生活の反復のリズムに、
時折、インサートされる雪と桜の指し示す、儚(はかな)さと美しさ。
生きとし生けるもの、
その全てに死は平等で間際にあり 、 送る人、送られる人、それらは一概に等価である。
映画の描写する、そのバトンタッチの手捌きの鮮やかさと、情動的な音楽との、
渾然一体となった「視覚」と「聴覚」の「ソニマージュ」に、
正統的に、俺は、泣かされた。
●映画の終盤に於いて、
いかにも冷たくて艶やかな小石が、「父親」から成人した「男」へと渡される。
映画はこの瞬間に「触覚」の感覚を、強く観客に意識させる。
ラストシーンに至り、「男」の指先が
スローモーションになり「胎児」の眠る「女」の腹に触れる。
彼の手のひらには子の胎動と暖かさを感じたであろう。
俺も同じ温度の暖かさを、自分の手のひらに認識した。
生命の連鎖を巧みに織り込んだ
滝田洋二郎演出の妙。
●劇場を出て、この映画のもつ「触覚」について、更に思いを馳せてみた。
男は亡くなった「父親」の顔面のひげを剃る。
何と、慈愛に満ちた優雅な儀式なんだろう。
出来る事なら、俺も死んだ親父にそうしてやりたかった!
ひんやりと冷たい、その触感。
いや、小さな温もりが残っていたかも知れない。
頭の中で、この映画を反芻(はんすう)すると、
映画の記憶を遡(さかのぼ)って、自分がおくりびととなって
親父の位牌に対峙し、両手でチェロを弾くかの錯覚を覚えた。
この指の「触覚」。
●死者を敬う装置として、
なだらかな傾斜地にある小さめの建造物、
その2階にある鐘楼のような静かな空間、
空間の中心に鎮座する山崎努の姿、
配置も印象的である。
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