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[コメント] ボウリング・フォー・コロンバイン(2002/カナダ=米)

ドキュメントを編集した映画の虚構と不足。
kiona

コロンバイン事件に関する自分の所感は、マット・ストーンがほぼ代弁してくれた。暗黒のトンネルで全てを壊したい衝動に駆られる状況は、自分の人生からも想像がしやすい。けれどもそのトンネルは、高校卒業と同時に抜けられる代物ではあるはずだ。ストーンは言う。「何で、誰も、そのことを奴らに教えてやれなかった?」誰も何も教えてくれない閉塞状況に追い込まれる現実は、何もアメリカに限った話ではない。

ところがムーアが事件を媒介にして主張したいのは、「銃社会が政府に煽られた恐怖により成り、それにより国民はさながら幻想でしかない内戦を強いられている」という位相の異なる主張だ。これがどこまで的を射ているのか、方法論として適切なのかは何とも言えないが、少なくとも“銃を振り翳すマッチョが、考える力を失った弱者に過ぎない”という構図を見せるべく、ヘストンを引きずり込んだのはえげつない作家の作為以外の何物でもない。ジャーナリズムとは言えない。スケープ・ゴートにされたヘストンは気の毒だが、一方でこれが映画なら、映画とは事実よりも意図であり、主張だ。

ところが一つの虚構として観たときにも不満を感じるのは、ヘストンのくだりがクライマックスになってしまい、後に続くものが見受けられない点だ。

「銃社会が政府に煽られた恐怖により成り、それにより国民はさながら幻想でしかない内戦を強いられている」

では何故、政府は恐怖を煽り、国民にそんな状態を強いるのか? 兵器、戦争、外交、政治――劇中、時折、顔を出していたにすぎないこれらのキーワードは、映画であるなら敵のモチーフとしてクライマックスに真相が暴かれるべき「ネタ」であるはずだ。この一本は映画として割り切ってみても、やはり不足だと感じる。

(評価:★3)

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