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[コメント] 幻の光(1995/日)

ディープフォーカスは制作者による視線の誘導から観客を解放する半面、下手をすると「解放性」が平板さや無関心に転じ、死んだ画面にも。ロングショットと、類似した構図を繰り返す本作もその危険を犯しているが、その距離感と静謐さは主題と馴染んでもいる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







画面の中央および側面から射し込む、窓やトンネルの向こう側からの光。回想の中のゆみ子(江角マキコ)の祖母は、トンネルの向こうから射し込む光に呑まれようとし、ゆみ子の息子と民雄(内藤剛志)の娘も、彼岸のようなトンネルの光の中で戯れる。

自ら列車に轢かれて死んだ郁夫(浅野忠信)。彼の盗んだ自転車。郁夫の死後、ゆみ子が自転車を漕いで列車の横を並走するショットと、それに続く、列車の横を、疲れたように自転車を手押しして歩くショット。新しい夫・民雄の許へ行く為に、息子と一緒に駅のホームで「列車」を待つ光景。台詞は無くとも、画面は雄弁だ。またこの駅のホームのショットでは、画面右側を船がエンジン音を響かせて通る。民雄と共に始まる新しい生活は、海の傍なのだ。

民雄と暮らす部屋は、画面右側の窓から、波の音が響いてくる。郁夫の死後、部屋でゆみ子と母が話している場面も、同じような構図で、画面右の窓から、列車の音が聞こえていた。列車と波。共に死のイメージ。海では、蟹を獲ってくると告げて去った女が帰って来ず、死んだかとゆみ子を心配させていたが、彼女は生還した。先の母との場面でも、夫の死に沈み込むゆみ子とは対照的に、隣室の老人は大きな音でラジオを聞き(郁夫は「生きてる証拠みたいなもんや」と言っていた)、母は孫の世話をしながらも今後の事を話している。壁に揺れる、洗面器に張った水の反射光。ゆみ子以外の全てが、残酷なほど現実を生きている。

オシメをしていた息子の成長や、民雄との会話が敬語ではなくなっている事などで、それとなく示される時間の経過。郁夫の死は画面から消えたかと一旦は思えたが、弟の結婚式に出席する為に帰郷したゆみ子は、民雄の許に帰ってからも無口になる。彼女の黒い服が喪服に見える。自転車の鍵についた鈴の音。それを耳にした民雄は、自転車の鍵が意味する所を知らない。ゆみ子は、民雄の前妻の影までも自分の中で甦らせてしまう。

この鈴の音は、ゆみ子が出遭う葬列から聞こえる鈴の音と響き合う。この場面で、小屋のようなバス停の暗がりから姿を現すゆみ子は、幽霊のよう。彼女が葬列を追うのを捉えたショットは、葬列が画面左に消え、ゆみ子独りになるまで、じっと待っている。海岸での、灯台の光と、火葬の火。民雄が迎えに来、今度は画面左側の火葬の火から二人が遠ざかっていく形をとる。彼岸から此岸への帰還。画面に小さく映る二人の影からは、その表情は読みとれないが、台詞のみならず、二人の歩みの運びからも、その感情が感じられる。

ラスト・カットからひとつ前のショットでは、民雄が子供と遊ぶ声が聞こえ、彼らの暮らす町並みが俯瞰で捉えられている。そのカメラの高さからすると、民雄らの声は大きめなのだが、この、高さによる被写体との距離と、声の近さによって、生の世界を突き放すでもなく、生との距離を埋めるでもない、絶妙な距離感が見てとれる。

是枝裕和監督は、後の作品の方がやはり演出はこなれているのだが、後からもう一度観てみたいと自然に思えるのは、意外にも、演出自体はやや単調にすぎる嫌いもあるこの映画なのだ。110分という時間の割には、奇妙に短い、一瞬で通り過ぎたような印象の残る作品。

ただ一点、浅野忠信は、そこに居るだけで映画が成立するほどの雰囲気を持ってはいるが、その事に寄りかかりすぎて細部を充分に詰めていないようにも思える。序盤は彼の大阪弁の不自然さが気になって仕方がない。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)irodori 赤い戦車[*]

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