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[コメント] アマデウス(1984/米)

甘い菓子のようにカラフルな舞台に響くモーツァルトの下品な笑声は、その音楽と同じく、矮小な人間すべてを嘲笑する。ミロス・フォアマンの演出は完璧とは言えず、特にDC版はテンポを欠くが、モーツァルトの音楽の素晴らしさはそれを補って余りある。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







若い神父(リチャード・フランク)は、神父つまり「father」と呼ばれる。少年期のサリエリがモーツァルトを羨ましく思っていたのは、その才能に対してではなく、音楽に理解のある父親の存在に対してだった。結局サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)は、モーツァルト(トム・ハルス)の亡父レオポルト(ロイ・ドートリス)と同じ仮装をしてレクイエムの執筆を依頼しに行き、それによってモーツァルトは音楽に生き血を吸いとられるように衰弱していく。荘厳な音楽を創造することと引き換えに、というか、神が地上にその御声を垂れる道具として使い果たされるようにして、神の御許に召されるわけだ。つまりサリエリは、モーツァルトの実父の代理表象を務めるのみならず、天上の「父」=神の代理人の役割も果たすことになるのだ。

サリエリが、眼前の神父に延々と告白を行ない、最後には神父が憔悴しきった様子で十字架を握りながら頭を垂れていること。神の代理人のつもりでいるこの神父に対しサリエリは、自分こそが神の手駒としてモーツァルトに白鳥の歌を歌わせたのだと、自嘲まじりながらも高らかに宣言しているようでもある。作曲当時は持て囃されたサリエリの曲をひとつも知らず、代わりに彼がモーツァルトの曲のほんの出だしを弾いただけでそれを引き継ぎ歌ってみせる若き神父は、現代の観客とまったく同じ立場でもある。

DC(ディレクターズ・カット)版で追加されたシーンの中で最も気になるのは、コンスタンツェ(エリザベス・ベリッジ)がサリエリからの取引に応じて夜に単身彼の許を訪ねるくだり。通常版では確か、この取引を持ちかける台詞自体が無くて、モーツァルトのオリジナルの楽譜に書き直しの跡がまるで見られないことに愕然としたサリエリが楽譜をとり落とし、家庭教師の職に夫を推薦してくれるかというコンスタンツェの問いに答えぬまま歩き去り、そのままサリエリが神を呪うシーンに繋げられていたはず。楽譜をとり落とす、というアクションは、DC版に於ける夜の訪問シーンでコンスタンツェが、もうこの楽譜は必要無いでしょうと言って足許に落とすという形で反復されていた。彼女がサリエリの要求に応じようと胸を露わにしたところで急にサリエリは彼女に退去を求める。

この一連の流れでまず重要なのは、音楽的成功と引き換えに神に純潔を誓っていたサリエリが、その誓いを決定的に破ろうとしていたこと。結果的には彼女に指一本触れずに終わったのだが、コンスタンツェが彼の眼前で楽譜を落としたこと、しかもサリエリのように、譜面に感動して落としたのではなく、彼にとっては音楽は重要ではないのだと宣告するような意味合いで落としたことにより、サリエリは神への反逆と狂気に一気に向かうことになるのだ。もう一つ重要なのは、サリエリに退去を命じられたコンスタンツェが彼を憎む側になり、ベッドで泣きながらモーツァルトに縋りつくことで、音楽家としてではなく人間としてモーツァルトを愛する者としても、サリエリの対蹠者となることだ。これは、“レクイエム”の執筆シークェンスでの、コンスタンツェが楽譜をとり上げてサリエリに憎しみの眼差しを向けるシーンの伏線にもなっている。尤も、ここでは、恋人、家庭人としてのモーツァルトと、音楽に身を捧げる天才としてのモーツァルトとが引き裂かれることが主眼なので、コンスタンツェの個人的な感情はさして重要ではないとも言えるのだが。

サリエリは、コンスタンツェの最初の訪問シーンで「ヴィーナスの乳首」という菓子をつまんでいるし(彼女の自前の「ヴィーナスの乳首」には手をつけなかったわけだけど)、夜の訪問シーンでもピアノの上に菓子を置いてつまみながら音楽教師の役を務めている(まさにモーツァルトが収入源として必要としている仕事だ)。モーツァルトから金の無心を受けるシーンでも、モーツァルト家にスパイとして忍ばせたメイドと話しているシーンでも、菓子をつまんでいる。モーツァルトがコンスタンツェと鬼ごっこをしたりしてふざけあっているシーン、つまりサリエリがモーツァルトと初めて遭遇するシーンでも、サリエリはこっそりと菓子の栗をつまみ食いしている。謹厳実直に振舞う彼に似合わないこれらの行動は、彼が生まれつき禁欲的な性格なのではなく、神への誓いを守るために真面目に生きようとしていることの表れだろう。甘い物への執着は、いわば代償行為なのだ。冒頭シーンで二人の召使が老サリエリの部屋の扉の前で「開けてください」と頼むシーンでも、お菓子でサリエリを釣ろうとしているし、ラストシーンで病院の人間がサリエリを連れて行くときにも、「貴方のお好きな甘いパンですよ」と言っている。特に「ヴィーナスの乳首」は、その名称にしても、コンスタンツェに持ちかける取引にしても、サリエリの禁欲の誓いとの密接な関係を感じさせる。実はサリエリの菓子好きは彼の伝記に記されていた事実らしいのだが、脚本はそれを見事に拾い、生かしている。

サリエリの禁欲は、地上の愛を自らに禁じることで天上の神の寵愛を得ようという、かなり一方的な要求の表れでしかないのだが、一方でモーツァルトの場合、コンツタンツェからの地上的な愛は、神からの愛と対立し、また敗北することにもなる。モーツァルトの言葉として伝わっているものに、こんなものがある――「高い知性も、想像力も、それらを併せたものも、天才を生むには至らない。愛、愛、愛。これこそが天才の真髄なんだ」。モーツァルトが曲を付けようとしている“フィガロの結婚”の内容について、宮廷楽長(パトリック・ハインズ)や劇場監督(チャールズ・ケイ)は拒否感を示す。モーツァルトの方は、劇に描かれているのは「愛」なのだと主張して、また愛かと嘲笑される。このシーンに先立って、イタリア語を用いるのが通例であるオペラに母国語であるドイツ語を用いることの是非が論じられていたシーンでもモーツァルトは、「ドイツ精神」について、それは「愛」だと主張していたのだ。モーツァルト自身は、コンスタンツェや“フィガロの結婚”のような地上的な愛を大切にしているようなのだが、そうした彼の一個人としての振舞いもまた、神の愛の道具となって、永遠の天上的な音楽の創造に奉仕させられていく。宮廷での“フィガロの結婚”に関する議論のシーンでも、通俗的な喜劇などとは違って神話や伝説は永遠なのだ、と反論を受けるモーツァルトだが、結果としては、モーツァルトの音楽そのものこそが永遠性に近づいたのだということを、歴史は告げている。

老サリエリが、流れるモーツァルトの音楽に合わせて、恍惚とした面持ちでその美を讃えるシーンには、いつも涙が出そうになる。サリエリの人生を呪われたものと化した「音楽」が、「神」の声が、そのサリエリの怨恨と嫉妬と憎悪と屈辱と、すべてを浄化していくこと。人間的な愛憎を超越した美。それがまさに、サリエリの台詞のとおりに音として具現化していること。

モーツァルトの生は、その底抜けの楽天ぶりをもってしても決して幸福なものとは言い難いものであり、音楽に翻弄された受難の生という意味では、サリエリとさして変わらない面もある。“レクイエム”書きとりのシーンが感動的なのは、二人のこの本質的な一致によるものでもある。パートごとに指示を出すモーツァルトの台詞により、曲の構造が分解され、最後にモーツァルトが譜面を確認するところですべてが総合され、ハーモニーを奏でる。早口で指示を出すモーツァルトに必死に追い縋ろうとするサリエリはこの時、モーツァルトの音楽に対し、純粋な畏敬をもって付き従っている。休憩を入れようとするモーツァルトが口にする、「眠っているあいだ、傍にいてくれるか」に勿論だと答えるサリエリに対し、モーツァルトは言う。「恥ずかしいよ。僕はあなたに嫌われていると思っていた。赦してくれ」。この「forgive me(赦してくれ)」という台詞は、まさに老サリエリが冒頭シーンで叫んでいた台詞だ。

神の声を地上に届けた天才モーツァルトと、たかだか人のいい音楽好きの皇帝(ジェフリー・ジョーンズ)や移り気な聴衆に賞賛されたに過ぎないサリエリ。どちらにとっても音楽は、人生を呪縛し苦難の場と化した原因だが、その音楽は、そうした地上の生の苦しみさえ昇華し、高みへと引き上げる。音楽は、成功のためにあるのでもなければ幸福のためにあるのでもない。すべては音楽に捧げられ、音楽に奉仕することで、束の間の生を越えた永遠性に触れる。これは、所謂「芸術のための芸術」といった芸術至上主義ともまた異なるものであって、芸術が具現するような至高性こそが生のすべてに、星座の中の一点のような、然るべき位置を与えるということだ。この作品の真の主役はやはり音楽であり、それが体現している「神の愛(Amadeus)」なのだ。

神の楽器として使い果たされたモーツァルトは、最後は共同墓穴に放り込まれ、布に包まれた数々の亡骸と一緒にされてしまう。実際、いまだに遺骨も発見されていないらしい。だが、肉体が朽ちて廃棄されようと、その魂としての音楽は、神霊の息吹きのように漂いつづける。

(評価:★4)

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