[コメント] パラノイドパーク(2007/仏=米)
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殆どのショットがアレックス中心である事による孤独感。周囲の世界は流れ去り、彼の寄る辺なさだけが持続する。
その孤立を癒すのは勿論スケボーという訳だが、それが最も端的に表れているのは、例の死体の件で生徒達が教室から呼び出される場面だ。一人、また一人、と教室から出てくる少年達。廊下に集まって歩く彼らを捉えたショットでも、彼らが刑事から質問を受ける場面でも、例外的に画面の中心にアレックスは不在となる。彼は、同じくスケボー好きの少年達の中の一人として溶け込んでいる。だが、刑事が提示した死体の写真を見た瞬間、再び彼はショットの中心へと引き戻されるのだ。こうした的確な画によって詩的かつ明確に状況を示すのが、この監督の才。
両親との関係も、母は、画面の中で焦点は合わされているが遠くに映り、父は、アレックスの顔のアップにだけ焦点が合っていて、その向こうにぼやけた像としてしか父の姿が見えない、といった画的な距離感に的確さが光る。父との会話の最後、「宿題がある」とその場を去ろうとするアレックス。その瞬間、ようやく父に焦点が合い、その腕の刺青が鮮明に印象づけられる。父は存在が希薄ではあるが、決して息子にとって無ではないのだろうと感じさせる。その父は、家から去るのだ。
それにしても、アレックスはこの年の少年にしては性への関心が希薄である。ガールフレンドとのセックスでも無反応で、一人はしゃいで友達に報告する彼女の姿が却って空しい。その直後の場面では、アレックスが男友達と温水プールに入っている。彼女に別れを告げる場面でも、ガールフレンドの抗議の声は呑気な音楽に置き換えられ、それに続く場面では、彼はまたもや男友達とスケボーに興じている。こうしたホモセクシャルな空気感もまた、この監督の持ち味ではある。
むしろ、女友達は、文字通りの「友達」としてこそ存在感を示す。最後、女友達と自転車で行くアレックスは、一刻、孤独から少し解放されている。劇中の彼のナレーションは全て、彼女宛ての手紙の文面だったのだ。だがその手紙は燃やされる。束の間の淡い救済は消え、曖昧な絶望感だけが残される。
スケボーと同じく、アレックスが列車に乗る場面も、この閉塞的な世界から何処かへ逃れたいという、出口を求める、速度への衝動がある。その結果として、より孤立してしまうという残酷さ。
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