コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 夕陽のギャングたち(1971/伊)

クローズアップの、露悪的な破壊性から、抒情によって画面を埋め尽くす演出に至る、様々な効果。殆どシュールなまでのショットの数々。そして、ショットなるものを撹乱させる爆破と煙。しかし邦題の「夕陽」の印象、特に無し。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭の馬車の中でのクローズアップの使い方にまず感心させられた。民衆の低俗さや野蛮さをあげつらう金持ち達の会話。彼らが物を食いながら喋り続ける顔、口許を、極端な、グロテスクなまでの接写でクローズアップにする事で、彼らが盛んに嘲弄する下劣さが、それを言う彼ら自身の唇に宿っている様を顕わにする。その合間にミランダの顔が挿入され、またこの接写の連続が徐々に、お高くとまった婦人がサクランボを含む口許に集中していく事で、ミランダが、金持ち共の言う所の下劣な欲望を、彼らへの攻撃性へと転じていくのが見て取れる。

馬車が、ミランダの仲間の盗賊達に襲撃された途端に、それまで卑小な脂ぎった男に過ぎなかったミランダの顔が、一変して頭領としての貫禄を表わしたり、盗賊達が小さな窓から銃と共に顔を覗かせる光景など、個々のショットのドラマチックさや構図の面白さは、このまま全篇に渡って続いていく。特に前半の、ケレン味たっぷりなサービス精神で濃く味つけされたショットの数々!

音にも注目したい。この馬車の場面でも、それまで豪奢に内装された密室で金持ち共が言いたいように言っていたのが、盗賊達に窓を破られた事で、外の鶏の鳴き声や虫の声が聞こえてくる。この事で、単に盗賊に襲われた、というのみならず、それまで金持ち共が目も耳も向けて来なかった、ずっとすぐ傍にあった民衆の生活が、音として侵入してくるのだ。

この後、婦人にミランダが股間を顕わにして見せると、彼女は怯えながらも目がそっちに向かってしまい、迫るミランダに触れる手も、彼を押し返そうとしているのか受け入れようとしているのか曖昧な形になっている。つまり彼女は、実は自身にも備わっていた下劣さを曖昧に肯定している。最後に金持ち共が真っ裸にされて家畜の群れに叩きこまれる時、彼女一人が服を奪われなかったのも、その辺に理由があるような印象を受ける。

こうした、語る気にさせてくれる面白いシーンがこの後も次々と続いていくのだが、後半は、徐々にシリアスな雰囲気に傾いていく。それに従って、あのユーモラスな「♪ションションション」が、気がつけば堂々たる感傷性(と、やや妙な言い方で表わすのが最も馴染む)を獲得し得ているのには驚かされる。この作品でのエンニオ・モリコーネの仕事は、音の物質的な感触に拘った様子が窺え、殆ど音響派的な仕上がり方に驚かされる。

「字が読める連中」に騙されて銀行を襲撃したミランダが革命の英雄に祭り上げられる辺りで、冒頭の毛沢東の言葉「革命とは優雅さや丁寧さを以て為されるものではない。革命とは暴力なのだ」が利いてくる。その事以前に、この引用文に続くショットが、ミランダの小便をかけられてアタフタする蟻の群れであったのがまず秀逸なのだが、事ここに至って、政府軍がこの蟻達に重なってくる訳だ。

「字が読める奴が起こした革命で、字が読めない奴が死んでいった」というミランダの言葉は、それに先立つドクターとの出会いの場面が、予め反復している。ドクターは、列車の中で警官に銃を突きつけられたミランダを救うが、その後も何食わぬ顔で、手にした本で顔を覆うようにしている。彼は活字に目を向けて、相手の目を見ようとしていない。このドクターは結局、拷問に耐えきれずに仲間を売り渡してしまうのだが、その彼が革命グループの一員としてミランダの前に現れた時に彼は、手術をしていた。麻酔も無さそうな状況だ。つまり彼はインテリとしての立場から、他人に苦痛を耐え忍ばせる人間として現れるのだ。

終盤へと向かう中、徐々に、マロリーの爆薬と、銃の違いが顕れてくる。洞窟に避難したミランダの家族が殺されているのを、彼とマロリーが発見する場面では、洞窟の奥から戻って来たミランダが事態を告げ、そして復讐の為に出て行った後で初めて、マロリーの主観ショットとして洞窟内の惨状が映し出される。その画に重なって聞こえてくる、ミランダによる銃撃の音。彼の家族を撃った銃撃音と、それに復讐する為に放たれている銃撃音が重ねられるのであり、それは冒頭の場面での接写の使い方と同じ手法だ。後者では言葉が媒体に、前者では銃撃音が、という形で、音が媒体となって、主客の反転と、攻撃性の交換が為されるのだ。

マロリーが初登場時に薬品を岩に垂らして地面に穴を空けた場面が象徴的なのだが、爆発は、対象を破壊するという以上に、場所を破壊する行為なのだ。対して銃撃は、対象をピンポイントで破壊する行為。銃撃戦では切り返しショットが為されるが、爆発シーンはむしろショット内を文字通り煙に巻く。銃はカメラと同様に対象を確定する道具であり、爆発と、それによって立ち込める煙は、対象を雲散霧消させる。

マロリーが最初に登場した時、彼が煙の中から現れたのは、画的には面白いのだが状況的には意味不明で、またそれでも全く構わなかった訳だが、改めて振り返れば、この映画に於ける煙とは、マロリーが全てを清算し、消してしまいたいと願う気持ちの表れのように感じられる。ドクターに密告された仲間がマロリーの眼前で銃殺刑に処される銃撃音と、彼の回想シーンでの、自分を捕まえに来た警官と、仲間を裏切り、指さしていく男をマロリーが射殺した銃撃音とが重ねられる。この、最終的には銃撃の応酬に行き着く「革命」なるものの虚しさ。

多用されるクローズアップは、ショット内を顔で埋め尽くす事によって、被写体の感情の襞や肌理で観客の精神をも埋め尽くす。所謂「主観ショット」よりも、当該の人物の顔への接近の方が概してその人物の「内面」に迫っていく力がある、という点は、映画の一つの逆説性として面白い所。更にレオーネはスローモーションをも用いて、或るショット内での人物の感情を微分化し、一つ一つの瞬間での表情の閃きへのクローズアップを行なう。或るシーンの流れの中の単位として有るショットも、そのショット内の時間の引き延ばしによって、ショットそのものが、映画的な文脈を踏み越えかけるほどに、自立的に立ち上がってくる。レオーネは、物理的な時間としては一瞬の閃きに過ぎないであろう回想に、その感覚的な時間に相応しい長さを与える。つまり、内包量としての質的時間が、量的な時間的広がりとして描かれている。この逆転もまた映画の逆説性の一つであり、それ故に、この映画の最後の回想の長さは、それを夢想しているマロリーと、眼前にいるミランダとの心的な距離を顕わにし得ている。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)赤い戦車[*] おーい粗茶[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。