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[コメント] 鏡の女たち(2002/日=仏)

原爆という巨大な光に焼きつけられた、影絵の物語。失われた美和、「美しい平和」を求めて。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







娘の美和の母子手帳を持っていた、記憶喪失の女、正子の部屋を訪れた愛は、そこで割れた鏡を見つけ、美和が過去、同じようにヒステリーを起こし、鏡を割ったのだと告げる。その割られた鏡は、娘の残した痕跡としてそのままにされているのだが…。鏡とは本来、自分自身の像を映して見る道具。言わばアイデンティティーの象徴であり、それが破壊されているとは、記憶が壊れ、自分が誰なのか分からなくなった正子の立場を暗示して見える。しかし、その割れた鏡が、愛にとっては娘の象徴。そうして、破壊されたアイデンティティーは、一方的に他者から宣告され、あてがわれるものとなる。

記憶喪失の原因は明らかにされないが、この事以前に既に、美和の記憶は、母に本当の父親を隠される、という形で歪められていた。この歪みは、美和の娘、夏来にも受け継がれる。しかもそれは、被爆した父の病が遺伝しているのではないか、という周囲の差別の目から、娘を守る為のものだった。受け継がれる記憶と、受け継がれる血。ここで原爆という主題が、この家族の劇に侵入していくのだが、実はこの映画、アイデンティティー探しだとか、その崩壊の悲劇などというものを描いているのではなさそうだ。

国の違いを越えて被害をもたらす原爆の恐ろしさと、国の違いを越えて命を救い合った者たちの友情。敵味方無く、という無差別。「私は私」というアイデンティティー=自己同一性よりも、「私はあなたでもあり、あなたは私でもある」という、繋がりという意味での同一性が、この映画ではより優位に立っているように見える。真っ赤な夕日を見て愛が「血のよう」だと言うのに対し、夏来が「ママ(血縁上の祖母)が流し、私のお母さんが流したのと同じ女の血が、私にも流れている」と答える場面もまた、原爆の象徴性と同じように、死と生を表裏一体にしつつ、“繋がり”を浮き彫りにして描いているのだ。

その一方で、米国から帰国していた夏来は、「アイデンティティーを見つけた」と米国の恋人にメールを送り、一方的に関係を切った。愛は、正子が或る男と愛人関係を持っている事を知って、驚きながらも「女が生きていくには、誰かが傍にいないと」と理解を示す。そして後に、自分が美和の父と結ばれたのも、そうした女の血の宿命からだと告げる。この事は恐らく、独り異国の地に暮らしていた夏来が、米国の男と恋人関係になった理由と共に、日本に残る事を決めた彼女が、この恋人との関係をメール一本で清算した理由をも明かしているように思う。「女の血」とは、生み育てる性としての女の、月経の血なのかも知れない。彼女らは、一度は男を必要とするのだが、最後には男を捨て、一人で生きていく。

アイデンティティーの証しを明確に得る事で、他者との関係が切れるという事。これは、夏来と恋人の関係だけではなく、愛が正子とのDNA鑑定を避ける理由にもなっている筈だ。愛から見ると、正子は娘であるらしい記憶のピースの幾つかを示している。正子自身は「誰かから盗んだ物」と思いたがっているが、母子手帳がそのピースの一つ。他にも、愛がカップに付いた口紅を拭う仕草を、正子が母の癖として憶えていた事。広島の病室の窓から見える、海と島々。海で泣く少女と、それを冷たく見つめる母親、という光景。だが、どれだけそうした材料が揃っていようとも、DNA鑑定の結果が親子関係を否定すれば、それだけで全てが崩れてしまう。ここに、人が生身の記憶を少しずつ紡いでいく過程と、真実を合理的に抉り出す科学が、そうした人の歴史を切り裂いてしまいかねない事の相克が現れる。

結局、正子は、DNA鑑定という確たる証拠が得られないままに擬似親子関係を続ける事に耐えられず、蒸発する。だがこの時、愛は正子に、養子になってくれと頼んでいた。愛もまた、記憶が結びつけた正子との関係を、科学が断ち切ってしまう前に、法的手続きという形で、確たる関係を結ぼうとしていたのだ。つまり、親子関係を信じつつも信じられない、証拠を恐れつつも確証が欲しい、という、二律背反な気持ちが、ここに表れている。正子はそれを感じ取ったからこそ、この関係から逃げ出したように思える。

夏来は、もうすぐ夏が来る頃に生まれた事から名付けられた名だが、夏とは原爆投下の日を暗示すると共に、巡り来る季節、輪廻する時の繰り返しをも思わせる。正子がその名の通り、愛の正しい子であるかは謎のままだが、最後に、やがて生まれてくるべき夏来の子の事を愛が語る場面には、受け継がれゆく「女の血」が、「愛」から流れていくものである事を感じさせる。映画は、画面が真っ白な光に埋め尽くされて終わるが、これは原爆の光であると同時に、未だ何ものにも染まらぬ白紙としてやって来る時をも示しているのかも知れない。つまり、ここでも過去と未来が融合する。それは希望の光のようでもあり、未知の不安のようでもある。この映画から何を感じるか、観客に自由に委ねられた白紙委任状のようなものなのだろう。

説明的な台詞や、観念的図式の上を歩く駒のような、登場人物の言動など、緻密な計算の反作用としての人工的な印象は、元々、吉田作品に付き物であるので、それも含めて楽しむべきなのかも知れない。記憶の中の、海辺の母娘のイメージで、母と娘の視線に立つ者が入れ替わる所など、「鏡の女たち」という題名に相応しく、また、本作の描く、血と記憶の継承という主題にも結びついている。それは、これまで吉田監督が作品で描いていた、交錯し合う視線の戯れと虚実の混交、という主題の、一つの反復でもある。女たちの、窓から差し込む光に真正面から向かい合う姿が、印象に残る。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)若尾好き くたー[*] ぽんしゅう[*]

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