[コメント] ヴィレッジ(2004/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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シャマランは「馬鹿馬鹿しさ」や「陳腐さ」に積極的に身を預けることで引き裂かれたエモーションを創出する。落とし穴のエイドリアン・ブロディを見下ろしたカット、その馬鹿馬鹿しさをただ笑ってやり過ごすことはできない。今そこで息絶えようとしている「怪物」が幼馴染のブロディであるということすらハワードは知らないのだ。なんと苛酷な場面だろうか。あるいは幕切れにしてもまるで一義的ではない。ハワードの「愛の力」によってフェニックスの命は助かるかもしれない。しかしブロディの犠牲によって村の体制は維持されるだろう。ハワードやフェニックスら第二世代は「真実」を、つまり自分たちが第一世代に「騙されている」ことを知らないままだ。確かに映画はハワードの愛を肯定しているかもしれないが、そのような村の在り方まで肯定していると見るのは早計すぎるだろう。癒えることのない哀しみに基づく第一世代の「善意」は、果たしてどこまで妥当なものなのか。ラストカットはそのあっけなさによってきわめて複雑な「ハッピー・エンディング」を実現させている(目が見えなくとも聡明なハワードは、もしかすると村の外に出たことで「真実」に気づいたのかもしれない。しかし映画はそうであるともそうでないとも云わない。「複雑な」とはそのような意味でもあります)。
他に印象に残った点について記す。「いてはならない」赤い布をまとった怪物が「いつの間にか」「当然のように」フレームインしてくる/している演出の驚きは、黒沢清の『降霊』や『花子さん』(TV作品)との親近性を感じる。ブロディがフェニックスをナイフで刺すところのカット構成はちょっと微妙ではあるものの成功していると云いたいが、シャマランのような人がここでヒッチコック『サボタージュ』のナイフ刺殺演出をなぞってみせないのは不思議にも思える。あるいは踏まえたうえでこのようにしたのか。いずれにしても、またこの場面や作品に限らず、シャマランにはアクションシーン撮影に対する尻込み(それとも禁欲?)が窺えるところがある。
ハワードは(とりわけ初登場シーンにおいて)まるで盲目のキャラクタとは思えない芝居をしていて、私はこれを「こういう演じ方もあるのか。新しいな」と思ってしまったのですが、やはりこれは私が愚かなだけかもしれません。
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