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[コメント] 奇跡(2011/日)

「にしても大それた題をつけてくれたのう。向後はいちいち是枝裕和の『奇跡』やらカール・ドライヤーの『奇跡』やら云わねば話が通ぜぬようになるのか。ええかげんにさらせよ。だらあ」という猛り狂いの矛を収めうる程度にはよい映画で、劇場を後にする私はむしろ恵比須顔を浮かべていたとかいないとか。
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**ネタバレ注意**
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まあ良し悪しではあるのだけれども、是枝の興味は必ずしも前田航基旺志郎兄弟には集中していない。たとえば内田伽羅が母の夏川結衣に向かって女優志望の意志を表明するシーン、物語の均衡を崩しかねないほどに充実した脇役同士の芝居については「これは子供が主人公の映画なんだから」という理由で納得しておくにしても、ワン・シークェンスにしか出演しない熊本の老夫婦に思わせぶりな過去を与えて、あまつさえ彼らに高橋長英りりィを配役するに至っては、「電車がすれ違って奇跡起こるとかどうでもいいから、こっちで本篇撮れよ」と思ってしまう。

さて、この映画の子供たちの造型は、他者たる大人が拵えた「子供」像の束縛から完全に自由だとは云えないにしても、やはり平均的な映画から比べれば遥かに子供の実態に即したもののように思える。というのは、自らの幼少時分を振り返っても思い当たるところで、見かけによらず子供は大人(に限らず、他者)に対して無茶苦茶気を遣って生きているということだ。兄の航基はむろんのこと、弟・旺志郎の奔放な振舞いもまたある種の気遣いに基づくものであることが明らかにされる。大人たちは云うに及ばず、阿部寛の一見無神経な言動ですら一種の装いであって、映画は彼の気遣いを芝居化したシーンを置くことを忘れない。このような全作中人物に一貫する気遣いの原理は確かに現実的なもので、それをフィクションに適用していく是枝の脚本・演出はほとんど米粒に描画するがごとき繊細・精緻の域に達しているかもしれない。

しかし気を遣ってばかりの人間だけで映画が成立するのか。このあたりで私なんかは「電車がすれ違って奇跡起こるとかどうでもいいから、暴走列車を止めることに命を懸けた男たちの活劇撮れよ」などと場違いなことを思ってしまうのだけれど、ここで「奇跡」とは子供たちにとって「願望/欲望の成就」のことであるのだから、それは気遣いと「とりあえず」対立する概念として導入されたものと云ってよいだろう。映画は作中人物たちの気遣いと願望/欲望の間を揺れ動くことで生成・展開する。そして、新幹線のすれ違う瞬間に為された航基の選択が「世界」に対する気遣いと呼びうるもので、またそれが「成長」でもあるならば、映画は弁証法で云うところの揚棄にも近しい穏当な結論を提出しているように見える。しかしここには作劇のトリックがある。「家族四人が再び一緒に暮らすこと」を実現させるために「桜島の噴火」を願うというのは航基が捏造した論理に過ぎなかったはずだ。すなわち、初めから「桜島の噴火」を経由せずとも「家族四人が再び一緒に暮らすこと」を願うことはできたのではないか。映画はその可能性を隠蔽している。したがって今、気遣いと願望/欲望が最もスリリングに対立する焦点として浮上してくるのは、内田である。母の夏川は実体験に基づいて「他人を蹴落とすぐらいの覚悟がなければ女優として成功はできない。お前には無理だろう」という意味のことを云う。確かにとてもそのようなことができる性格に見えない内田は、それでも「女優になりたい」と自らの意思を表明する。実際のところ彼女にはどのような選択肢が与えられており、またどのような選択をすることになるのだろうか。『奇跡』は内田伽羅を主演として「奇跡」とは無縁に撮り直されるべきだ――と結ぶことが必ずしも暴論であるとは限らないと私は考える。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)煽尼采 ぽんしゅう[*] けにろん[*]

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