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[コメント] Away(2019/ラトビア)

死んで、生まれて、見て(まっすぐな瞳!)、聴いて、感じて、練習して、走って、走って、立ち止まって、想う。そしてまた走る。五感に訴える世界創出(とりわけ風)。世界に生きることそのものを凝縮し、その秘密に触れる驚異的にシンプルな寓話。また、徹底した「速度」の映画だ。「日本版スタッフ」は問答無用で縛り首。情状酌量の余地無し。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ああ、世界には風が吹いていたんだよな、と冒頭から忘れていた感覚を呼び覚まされた。それこそ死んでいた感覚が蘇るような。饒舌な静謐というのか、次々と観客の想像力、感覚に訴えてくる。語ることがないがための象徴的・暗示的語りではない。木々はみどり、水は冷たくて気持ちよくて渇きを癒してくれる。当たり前だ。しかしそうか?それはとてつもなく特別で神秘的なことではないのか?一度死んだ少年は、もう一度生まれる。この世界は、全てが新しい。

死の安息に呑まれずに世界に生きることの物語である。美しい世界(鏡の湖で象が現れた時は鳥肌が立ち、くらくらした)だが、ともすれば牙を剥いて襲いかかる。渇き、寒さ、飢え。死、停滞が安息なのは事実だ。「影」に飲み込まれた少年を迎える温かい光、胎児のポーズ。安息がそこにあるのに、なぜ走るのか。なぜ小鳥は谷底から飛んだのか。カメラはひたすら徹底して少年と小鳥の視線を追い、触れるものを映し、彼と小鳥が見出すものを観客に感じさせる。ただ「死なないため」だけに走るのではない、では何のために?観客は彼と小鳥との同期を通じ、この問いに向き合うことになる。映画は一つの答えを出すが、一つの例でしかない。ここは各自が考えるべきことだろう。

彼が走る意味を見失う時に現れる影の速度がいい。ゆっくりと、しかし着実に迫る。その速度が、サスペンス感の醸成と、死生観とリンクする。バイクで走り出すその速度の高揚感、雪山で吹雪に阻まれ水を含んだ綿のように重くなる足取り、あるいは動かなくなった骸も。亀の扱いも象徴的だ(亀、かわいい。そして、ああ、猫ちゃん 泣)全てにおいて死生と結びつけた「速度」の演出が徹底されている。

以下、他作の重大なネタバレあり。

私の見立てでは、これは完全に『Gravity』と相似形にある。死から生を受けることについての象徴的寓話性を絡めたシンプルで強いストーリー(=宇宙から地球に還ること)、死の安息(胎児のモチーフ)と抵抗、水の扱い(羊水)、美しくも残酷な地球の姿、大気圏再突入と雪崩から逃れて逆落としに走るその速度の相似、最後は自分の足で立ち上がり、歩くこと(誕生のモチーフ)、、、

ただ、この相似で語る上では若干不満がある。少年の走りの表現にはもう一つ「重力」を感じさせる重みが欲しい。生きることの苦しさ、それでも歩く決意の表現として。特にバイク乗り捨て後のクライマックスシーンにはこれが必要だったと思う。しかしここまで表現しようとすると、ちょっと個人の手だけでは足りなかったのではないか、と好意的に想像している。

そして、ここはお笑いだが、異常な邦題を設定した日本スタッフの無能さ、この点まで相似している。本作の日本版エンディング、どんなに酷いのかと怖いもの見たさで見てしまったが、想像以上だった。映画を咀嚼したまともな人間が出来る所業ではない。楽曲も編集も最低水準である。誰がこんなものを望むのだろう。こんなものを望むほど日本の観客は低水準なのか。もしかしたらそうなのかもしれない。月魚さんの忠告に素直に従うべきであった。悔やんでも悔やみきれない。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)おーい粗茶[*] 月魚[*]

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