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[コメント] きみはいい子(2015/日)

世間は癇性に覆われているという世界観を丁寧に提示した傑作。変態は世界を救うか。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







子供とどう向き合うかを探った3篇のオムニバス。私は、世間は訳の判らない癇性、癇癪、癇癪玉に覆われている、という世界観の映画と受け取った。癇性は呉美保監督は主題のひとつなのだろう。『オカンの嫁入り』で宮崎あおいが受ける匿名のストーカー被害とそのトラウマは強烈な描写だったし、『そこのみにて光輝く』における高橋和也の余白の多い癇癪男の造形は秀逸だった。続く本作で、この主題は全面展開されている。

尾野真千子の癇性の描写はある意味とても判り易く、他方とても判り難い。ただただ自分の信条が犯されたから虐待に及ぶ訳だが、この信条が躾という常識と一見合致するから事はややこしくなる。判り難いのは娘だ。娘は、何を感じて母を許すのだろう。ただ人前で過剰に対面を気にするためなのか。父の不在に関して母に同情するのだろうか。この娘の眼差しがまた母を刺戟する負のスパイラルがあるのだろう。ここを映画は説明しないが、それゆえの緊張感がある。説明の及ぶ処ではないし、説明すれば多分安易に流れただろう。

本作で癇癪を爆発させる人物は他に4人おり、うち田所君の父の松嶋亮太の弄するのはとんでもない詭弁だが保健室で立入禁止と云われるし、電話口の2人のモンスター・ペアレントはある意味正論だったりする。高良健吾は怒りたいから怒る人に囲まれているのだが、論理には論理で応えなくてはならない。この相手の論理がなぜか多数派になるともうどうしようもなくなるし、5人目は恋人とくる。私の高校時代の同級生で先生になった男は鬱になったが、こんな状況に追い込まれたら、ならない方がどうかしていると思う。そしてこれは学校だけの話じゃなかろう。そう云われれば私など正直、癇性に囲まれて生まれ育ち、自分もまた不要な癇性を振る舞ってきたものだと思わざるを得ない。懺悔したい心持になった。

もうひとつの一篇、痴呆と自閉症の件は、癇性と関係なさそうにみえて大いにあるのだと解した。富田靖子喜多道江ととても素敵な関係を結ぶことになるのだが、もし最初の出会いで、万引きをした喜多に対して富田が癇性に訴えた行動を取っていたら、とてもこうはならなかっただろう。富田の穏やかさは理想として描かれてる。中国の故事みたいだが、いい逸話ではないか。

この提示編だけでもう充分傑作で、解決編はこんな根本的な問題、解決がつくはずもないから期待しなかったのだが、殆ど力技で突き抜けている。この解決、かつての公共広告機構の「抱きしめる、という会話」なるCM(2003年)のコピー&ペーストだ、という批判があるかも知れないが違うと思う。あのCM自体、福祉関係者の英知の結集であり尊敬に値するものだが、本作はそこから一歩足を延ばしている。

抱きついた甥っ子に「がんばって」と云われる高良。池脇千鶴に抱きしめられる尾野。いずれもその唐突さが奇跡の感触を持っていて素晴らしいのだが、重要なのは、この抱きしめる側の二人は正反対の動機からそうしていることだ。甥っ子は「子供を可愛がれば世界が平和になる」と云ってくれる母親を持ち、池脇は虐待の経験者なのだから。このふたつを並置できるのもオムニバスの効用で、総合すれば、子育てに万能のマニュアルはなく、偶然を力にするほか道はない、と語っているのだと受け取った。「抱きしめる」に至るプロセスが重要なのだ。そして収束の高良が走るのも、関係の偶然の力によるのだ。

高良が出した「家族に抱きしめられてくる」という宿題の出題意図を翌日児童に問われる件がある。児童らはいかにも子供らしく「(先生は)変態だから?」と問う。私は、家族同士なら変態じゃないでしょう、という当然かつ安直な回答を予想したのだが、高良はそうは応えず、不思議な気持ちになったでしょ、などと自分の言葉でいかにもたどたどしく応答する。これには感銘を受けた。変態(クイール)を高良先生は否定しないのだ。本作、家族単位なら自滅するところを救われる三篇なのだと改めて確認できる。監督には次回作以降で是非、ここを突き詰めてほしい。そうすれば本作の世界は広がりを持つだろう。日本映画にはクイールの主題が少な過ぎる。いや『そこのみにて光輝く』で既にこれは達成されている、というべきか。

本作のベスト・ショットはやはり、上記の尾野を抱きしめる池脇の件だろう。殆ど超能力のような人の心を見透かした断定が、突然の密接のショットでもってダイレクトにこちらへ伝わってくる。『カラマーゾフの兄弟』のイワンとアリョーシャを想起させられた。家も学校も日中の室内はほとんど電気が灯されず、これが舞台に独特の緊張感を生んでいて、節電中ということでリアルが担保されており、殆どエネルギー事情による癇性の氾濫かと思わされる。前作で汚れ役だった池脇と高橋が超越した善人として登場するのもとてもいい。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)jollyjoker[*] けにろん[*]

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