★3 | ノサップの銃(1961/日) | 北海道ロケの威力は大したもので、低予算のプログラムピクチャーをここまで迫力満点に料理できたのは納沙布の雄大な景観あってのことだ。最初から目を奪うのはおてんば娘、南田洋子のヒロインの座を奪う痛快な言動、行動だ。これに較べるまでもなく宍戸は単なる銃(ガン)であり、悪を撃つ以外の役割はない。女に報いる肉体は持たない存在なのだ。 | [投票] |
★3 | 天と地を駈ける男(1959/日) | 時代を感じさせるカメラアングル。それを悪いとは言わないけれど、どうにも緊迫感や迫力を欠く航空機描写は残酷に「時代遅れ」の烙印を押されるシロモノだ。裕次郎と二谷の相克も哀しいほどありきたりに堕してしまった。プロペラや会話内容のせいではない。'59年の時点で見つけ出されていない描写の普遍性のせいなのだ。 | [投票] |
★3 | いのちの朝(1961/日) | じゃが芋ばかり描く画家が武者小路の私的投影に見え、ナルシシズムここに極まれりとつい嫌悪感が先に立った。それにしても50年余の世界の変容を大きく感じさせられる家族映画だ。今ならこのように妻を精神・肉体の両面で支配する亭主は吊し上げを食うだろうし、こんな暴君は名画家であっても許されないだろう。芦川いづみのみが清涼剤である。 | [投票] |
★2 | 真白き富士の嶺(1963/日) | 手持ち式ではないカメラが素っ頓狂な方向に飛んでいったり、ズームアップが連続で多発するカメラワークの悪戯に驚かされるが、程なくそれは、極めて保守的な芸術祭参加作品のモノクロ画面に退屈を噛み潰すスタッフの遊び心の産物と気づく。幾度白血病に冒されたかわからない小百合のこの手の作品では異色だが、どうあってもマンネリから逃れられるわけではないのだ。 | [投票] |
★2 | 白銀城の対決(1960/日) | 古いもの=悪いもの=片輪もの=カッコ悪いもの、といった図式は昔のフィクションには散見されるものだけれども、さすがに21世紀になって見せつけられるとムカッ腹の立つ特徴づけではある。田舎の話にしてもこの作品の罠や妨害は子供だましに終始させられることもあり、裕次郎の活躍に痛快さは皆無。 | [投票] |
★4 | 浅草の灯 踊子物語(1964/日) | 空気の緊張感と浅草文化の緻密な乱雑さは、とりあえず通俗映画に求められるほとんどの要素を満たすものだ。だが浅草の遠景がカキワリであり、吉永小百合の歌唱が全くの吹き替えであることから判るように、ここに登場する要素はすべてフェイクである。もっともそんなフェイク映画を愛するのが日活映画ファンであることを語るまでもなく、このデタラメ浅草は納得させられるものだ。 | [投票] |
★3 | 幌馬車は行く(1960/日) | 当時の西部劇ブームに乗り、急遽低予算で作り上げたお手軽ウェスタン。立山の高原ロケにより雄大な風景と馬上のキャラによる銃撃戦は撮り上げたが、人間ドラマのお粗末さは事情を語って黙ることがない。結局は赤木圭一郎鑑賞のための一本に収まった。 | [投票] |
★1 | 霧の中の男(1958/日) | 自分の悪行を何でも他人のせいにしてきた男が、甘ったれたままにママ代わりの女の腕の中に戻ってゆく物語。もう慎太郎のナルシズム映画は観まい、と固く誓った。 [review] | [投票] |