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[コメント] トーチソングトリロジー(1988/米)

ゲイの物語ではあるが、かなりストレートな映画。
tredair

おタンビ系が好きなヤオイ少女はがっかりしてしまうかもしれない。

が、異性であれ同性であれ、生身の人間を愛することで悩んだり苦しんだり格闘したりした経験があれば、そっち方面でヤラレル確率は高い。かも。

あくまで「かも」だけど。

もしくは自分を受け入れることの大切さ。かなぁ。確かに自分自身を肯定しないことには、人を愛することもままならないだろうから。

自分でも好きになれない「私」に愛されたところで、相手だってきっと嬉しくないだろうしなぁ。コンプレックスにさいなまれつつの愛だなんて、考えようによってはあまりに勝手な自己愛にしかならないような気もするし。もしもそれが少しでも見返りを期待する愛であるならなおさら。

それはそれでわかると言うか、別によいのだけど。ウッディ・アレンも大好きだし。

ともあれ、アーノルドを通してかいまみるのはゲイであるゆえと言うよりも人間であるゆえのモダエ。単なる「人」としての劣等感や孤独感、焦燥。そしてそれを凌駕するほどの誰かを愛したいと願う気持ち。情熱。そのためにもあるがままの自分を肯定しようと必死に胸を張る切なさ。

なんのかんの言いつつアーノルドは、愛したくて愛したくてたまらなくて、そして、それを同じように「受け手」としても実感したいだけなのだと思う。受け手としての実感。つまり、愛したいと思うと同時に同じぐらい愛されたいと願う心も必ずそこには存在するから、そこに尊い無償の愛などはないのだけど。

そんな愛などなってない、陳腐だ、エゴだ、と思うこともできるかもしれない。けれども私は、そのために必死で努力するアーノルドに敬意を払いたい。なぜなら彼は、まず「自分から愛そうとする」から。決して一方的な受け手になろうとはしないから。

なんだそんなこと、だなんて私にはとても思えない。そんなに愛されたいならまずは自分でせいいっぱい愛してみろよ。そう問われて鼻で笑えるような人が大多数だとは思えない。愛するということに対し受け身になったことはない、と断言できる人はそんなに世の中の多数を占めるのだろうか。

そもそも愛するだけですべてが満たされるほど、人は誰かを愛することができるのだろうか。息子や娘ではなく、他人を。

ほとんどの人にとって、きっとそれは困難なことなのだと思う。だからこそ「失恋」に苦しんだり悲しんだりし、「死」を含む「別れ」を恐れるのだと思う。「相思相愛」の喜びを実感したり、少しでも一緒に過ごしたいと「ともに暮らし」はじめたりするのだと思う。

そして、「困難かつ満たされた愛;無償の愛など」を目にしたとき、(自分にはできないことだからこそ)深く感動するのだと思う。

同等の見返りを願う愛。上等じゃないか。それぐらい他人を愛せるならば。十分と言いきれるほど、相手を愛せるのなら。

「…では、僕は愛していたのか。僕は正直に言うわ。"イエス"よ。僕は愛した、真剣に。でも、十分でなかった。」

これは、冒頭でアーノルドが過去の失恋話を打ち明けるときの手話まじりの台詞。アーノルドの気持ちに自分の気持ちを重ねて自問自答してみる。そして考えてみる。

私は本当に人を愛したことがあるのか。十分と言えるほど誰かを愛したことはあるのか。

(評価:★5)

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