[コメント] レイダース 失われた聖櫃〈アーク〉(1981/米)
『魔宮の伝説』を先に見ていた子供の頃の自分には、このパート1が大したことないように感じられたものだ。シリーズもののジンクスを前にして、技術やメソッドの進歩がいかに無力であるかは、『ファントムメナス』など多くの作品が証明している。
見過ごされがちだが、『魔宮の伝説』は二本目のジンクスを破った稀有な映画だった。
パート2のジンクスが破れないのは、演出技術において超えることが出来ても、物語においてオリジナルを超えるものを捻出できないという理由に起因している。生まれてくるパート1の物語に、産み落とすパート2は往々にして勝てないのだ。
ところが、この『インディー・ジョーンズ』シリーズ、特にこの『レイダース』、物語らしい物語がない。スピルバーグはプロット=筋の捻出に徹し、物語をなしで済ませてしまったのだ。
ハリソン演じるインディーことヘンリー・ジョーンズ・ジュニアは、続編に付き合わせる主人公の魅力を持っている。続編を生み出さずにいないキャラの魅力は、ジェームズ・ボンドを髣髴とさせる。
そのジェームズ・ボンドは、続編の方程式を確立したヒーローだが、それ故に彼は一貫した物語が許されない。彼にとっては、新しい事件も、新しい敵も、新しいロマンスも、彼自身の物語の一部ではなく、同じ方程式の一端を担うX、Y、Zに過ぎない。インディー・ジョーンズもしかり。方程式である以上、彼自身は、常に“物語という消耗”の外側に身を置く定めにあるし、ひいては映画自体も物語と言えるような確固たる物語を拒絶せざるを得ない。だからこそ、筋と演出だけでオリジナルを超えられる。
とはいえインディーがいるフィールドは、ファンタジーなのだ。“主人公にとっての身を切るような物語”を失い、方程式になってしまったら、それはもうテーマパークだ。潜水艦から岸に泳ぎ着いてしまうことが許されるのも、ここに理由がある。物語は泳ぎ着けない人間の限界にこそ発生するが、テーマパークは泳ぎ着いてもらわないと困るのだ。
『最後の聖戦』になると、ようやくインディーに親子の物語が発生する。そして『クリスタルスカル』では跡形もなく消えて、ディズニーのアトラクションに落ち着く。
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