[コメント] ロスト・ワールド(1925/米)
人はいったい、いつから映画を観て「驚く」ことをやめてしまったんだろうか。『ロスト・ワールド』を観ながら、なんとなくそんなことを考えていた。
南米は大河アマゾンの源流地帯に広がる大密林のどこかに、外界と隔絶された人外の秘境がある。1912年にコナン・ドイルが生み出し1925年に『ロスト・ワールド』が映像で描いたメイプル・ホワイト台地は、21世紀の現代に見てもなお驚異に満ちた「失われた世界」だ。この映画に登場する恐竜は、ストップモーションアニメという技術で作りだされた。恐竜の可動ミニチュアモデルを少しずつ動かし、1秒24コマのフィルムを1コマずつ撮影することで「動くはずのないもの」を動かし生命を吹き込んだこの特撮(あるいはこの場合「トリック撮影」という、これまたグッとくる言葉のほうが相応しいかもしれない)、この特撮がオレは理屈抜きで好きだ。「動くはずのないものが動く」驚き、それは動くはずのない写真が動くという不思議な発明「映画」が与えてくれる原始的な喜びに似てやしないか・・・ま、こんな感じ方は安っぽい感傷にひたる特撮オタクの妄想と笑ってもらっても構わない。
時は流れ、時代は変わった。特撮を含んだ映像技術は長足の進歩を遂げた。現代の映像技術の水準からすると、『ロスト・ワールド』の特撮は児戯に等しい代物だ。しかし、ここからひときわ声を大にして言いたいのだが、『ロスト・ワールド』に匹敵するほどの鮮烈な驚きを感じられる映画が、現代にどれほど作られているというのだろうか?
人は、見たこともない新しい映像技術に驚くのだろうか。昔はオレもそう思っていたのだが、CGによる特撮があふれる時代になった今、そうじゃないんだと強く思うようになった。まず何よりも、『ロスト・ワールド』の作り手は太古の恐竜が生きている「失われた世界」の存在を信じ、発見し、驚き、感動しているのだ。その驚きと感動が画面からあふれ出てきてはじめて観客は驚き、感動するのである。映像技術が人を驚かせるのではない。作り手の驚きがスクリーンを乗り越えて観客に届いて伝染したときにこそ、人は驚くのではないか。そしてどんなに技術が進歩しても、人が作ったものを人が観るという構造だけは永久に変わらない。『ジュラシック・パーク』というシリーズを思い出してほしい。1作目の新鮮な驚きが、続編では早くも失われたことにガッカリしなかったですか。あれはCGという映像技術が新鮮味を失ったのではなくて、続編の時点で作り手自身がCGによる映像に驚きを保てなくなっていたのだ。だから観客に伝染すべき驚きが、続編のどこを探しても見当たらなかったのだ。
『ロスト・ワールド』がまざまざと見せてくれたのは、太古の恐竜たちが今なお生き続ける「失われた世界」である。同時にオレにとっての『ロスト・ワールド』は、「失われた驚き」そのものだった。かつて映画が与えてくれた「驚き」、現代では作り手も観客もスレちまってすっかり忘れてしまった「驚き」、その「失われた驚き」を取り戻した映画と出会えることを、オレはいつも願っているのです。
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(追記)
オレが観た映画『ロスト・ワールド』は約60分。オリジナルは2時間以上あるらしく、しかし多くのシーンが紛失してしまったそうです。これを復元しようという運動が今も行なわれており、現在は復元された約90分のバージョンが最もオリジナルに近いとされています。『ロスト・ワールド』は「失われた映画」でもあったということです。
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