[コメント] さびしんぼう(1985/日)
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クライマックスの石段、富田靖子が「もういいの」と云ったとたんに、眼の墨が一本頬を伝って流れ落ちる。あの絶妙のタイミングが計算できるはずもなく、数年に一回しか現れない映画の奇跡がここで起こっている。このシーンだけでも、本作は傑作と呼んでいい。
マザコンはなく逆で、母親が息子を恋慕する話だろう。道化のほうの富田は、息子の尾美としのりに恋している。または/同時に、同じ名前を持つ昔の恋人に恋している。境界線はわざと曖昧にしてあるが、前者が強調されているのは明らかだ。あのままでは近親相姦な訳で、もちろん藤田弓子の距離感が健全なのだが、もし母親が息子と同じ年ならこのような倒錯もあり得るという神話的な処まで本作は踏み込んでいる。大林監督のロマンチズムはここでは相当過激である。
特に前半、大林印の躁鬱気質を爆発させて手が付けられないほどだが(藤田のヒステリーをひやかしに行く先生生徒の件はさすがにやりすぎだろうが)、この狂ったような演出も上記のような倒錯を描くにはちょうどバランスが良かった。尾美の自転車の富田との失恋と併せ、本作はショパンを(反面教師的に)引用しつつ、失恋を糧に生きていこうという励ましにとてもいい余情があり、観終わる頃には不思議と派手な演出は記憶から薄れ始めている。ただ、だからこそ、富田似の妻と娘という収束は余計と思う。
富田はなぜ尾美に家(島の外れにある)を訪問させないのか。女子の警戒心だけではなさそうなのだ。なぜ「貴方の愛してくれた方の横顔だけみてください」と云うのか。家が貧乏にしてはいい着物を着ている。被差別の集落なのではないかという気がする。演出上、富田をミステリアスにしようとしただけなのかも知れないが、総体としてそうとしか受け取れない。いつもここが気にかかる。
封切時、多分二番館だったが、『台風クラブ』と併映で観て、腹一杯になった覚えがある。コケティッシュな富田の道化は、自分のなかでは台風のなか放浪する工藤夕貴と一対になっている。忘れ難い思い出。
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