[コメント] 21グラム(2003/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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心臓移植をすると、心臓提供者の気性や感性や趣味傾向までが移植される側に移ってしまうことがあるそうだ。たとえば、クラシックしか聴かなかった中年女性が心臓移植後突然ヘビメタを聞き出した、調べてみると実は心臓提供者がヘビメタ中毒の少年だった、そんなような話が実際あるらしい。科学的に証明されうることなのかどうかは知らないが、幻想だとしても、とてもリアルなものを感じる。少なくとも精神的には、移植された側は提供者の人生を請け負うことになるのだ。また、この観点から考えると、Life will go on.の意は「人生は続いていく」であると同時に「生命は続いていく」でもあったはずではないだろうか?
この映画は非常に重いテーマを扱っている。言うまでもなく、それは取り返しのつかない事故であり、取り返しのつかなくなった人生であり、死であり、同時にその死を背負うことになった人生の暗闇だ。普遍的だが答えの出ない、非常に重いテーマ。イニャリトゥはこの底知れぬネガティブな問いに、何らかの救いや希望、とにかくポジティブな何かを見出そうとしてこの物語を綴ったはずだ。それは結末からもわかる。
たが、被害者と加害者の間に横たわる闇に何らかの意味を見出そうというのが、作家の葛藤だとするなら、イニャリトゥはとても特殊な題材を選んでしまったのかも知れない。この映画が特殊なのは、心臓移植という非常に神秘的な事象がからむ点だ。何故神秘的かと言えば、それが遂行されることにより、提供者の死は死と定義されづらくなるからだ。確かに、彼の人生はそこで終わる。しかし、彼の生命は別の器の中で続いていく。そう、ここで Life の意味は分断される。そして、この映画の設定が非常に興味深いのは、提供者の死がデルトロに、提供者の生がペンにそれぞれ課され、両者があい対する立場で向き合うという点である。その二人の相克をもって、ワッツ演じる被害者の遺族というテーマの普遍的な壁にアプローチしようというのだ。
果たして、このアプローチはうまくいっただろうか? 結末は、確かにデルトロとワッツを隣同士に並ばせてみせたが、強い結論ではなかった。むしろ作家が向き合った現実に追い込まれ、闇雲に捻り出したようにさえ感じられた。
足りなかったとすれば、何だろう?
イニャリトゥは「人生は続いていく」の重さと向き合い、疲弊し、それだけにかかりきってしまい、「生命は続いていく」神秘を描こうとしなかった。ペンが生き延びたことの神秘、ワッツがペンに出会ったしまったことの神秘、デルトロがペンと向き合わされることの神秘――その神秘には、心臓移植というネタの特殊さを越え、普遍的な問題の闇をたとえ一瞬でも照らす光があったのではないか? 映画は現実ではない、嘘だ。その嘘が宿す可能性こそ映画の光だ。ペンが監督した『クロッシング・ガード』にはそれがあった。この映画が化けなかったのは、それがなかったからではないだろうか。
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