[コメント] リアリズムの宿(2003/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
アニメーション映画が不得手だ。何故かというと、アニメでは一つ一つの描写が 計算されたものでなければならないからだ。不要なものを入れる必要がないから、 すべて最初から計算されたものだけが描かれる。 どんなに子供向けのアニメでも、作り手の意図があらゆる画面に読み取れる。 だから、私には時折、息苦しく感じられる。
アニメ映画を否定するつもりは毛頭ない。でも実写映画と比較したとき、どうしても その問題点も気になるのである。
ところが最近の映画の多くは、たとえ実写であっても、アニメーション映画と同じような 印象をもつ作品が多いように思う。最初から偶然性が排除されている。 コンピューター映像の多用が原因かもしれない。
ここにはそんな世界とは対極的な世界が描き出されている。
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作品の中盤に入りかけたところ。 木下、坪井、そしてその間には敦子が座って酒を飲んでいる。
木下は敦子に恋愛観について講釈したがっている。 若い敦子はまじめに話を聞く。若い女の子は恋愛話にはまじめに耳を 傾けるものだ。なにかすごい話でもしているのか、という風に。 しかし坪井は、木下の話が最初からつまらないから、 言いたいことがありすぎてそわそわしている。 よくあるシーンだ。 私も大学に入ったころこんな光景を毎日見ていたものだ。
しかし途中で話の中心は坪井に移る。坪井には恋愛体験が ある分、話はよりリアルだから敦子は当然坪井の方に関心を持つ。
当然木下は気分が悪い。だから木下はカラオケで歌い始める。敦子はちょっと驚いた様子。 坪井は・・・不機嫌な表情で下を見る。少し笑っている。笑っているのは 坪井ではない。長塚圭史だ。でも思わず笑ってしまった表情がなんともいいのだ。
このシーンは、細かく計算された優れたシーンである。と同時に、至るところで偶然性がある。 俳優山本浩司の唄う表情はなんだかいい。尾野真千子のまじめそうな表情もいい。 そこには計算できない何かがある。
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気になったのが天気。晴れたり、雪だったり、雨だったり。 尾野真千子が雪のなかを徘徊するシーン(すばらしい)。(その前に雪が 降っていただろうか?)そのあたりで 私たちははじめて真冬に近い時期なのを知る。
晴れたときは驚くほど背後の山並みが美しい。
そういえば、最後の方では雨も降っていたな。傘をもった女子高生が上手く 生かされていた。天気はほとんど偶然だろうけれど、それを上手く使う閃きが 作品に「間」を与えている。
偶然が生み出す様々な「間」。それが作品と私たちを直接結びつける何かであることに 私たちは気づいている。
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