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[コメント] 怒りの日(1943/デンマーク)

検閲通過の韜晦として史上屈指のダブル・ミーニング。凍りつくような沈黙が支配する、『奇跡』の前哨戦に相応しい傑作(含『尼僧ヨアンナ』のネタバレ)。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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当時のデンマークはナチ占領下。法律雑誌の編集していたドライヤーは乞われて10年振りに現場復帰、ドキュメンタリーフィルム製作を始めるが、そこには「デンマーク人ならすぐわかるが他国人にはわかりにくい皮肉やレジスタンス精神が隠されていた」(三木宮彦)と云われる。

そんな監督が撮った劇映画復帰第二作目だから単純なものであるはずもなかろう。実際、映画は幾つものの解釈ができるように仕組まれている。そのようにしてドイツ軍の検閲を通過してリアルタイムで公開されたのだった。

まず、主人公のアンヌ(リスベット・モーヴィン)もその母も、老婆マルテ(アンヌ・スヴィアキア)も魔女だったとする解釈がある。これが占領の経過などなければフツーの解釈と思われる。そしてこれがナチス用の解釈だろう。他方、三人とも魔女でなかったとする解釈が成り立つ(その間に個別の組合せがあり組合せは全部で9通りになるだろうがそうなると解釈は複雑を極める)。

冒頭、老婆は絞首台の下の毒草を摘んで作った何かを別の老婆に勧めている(彼女は密告したのだろう)。外で鐘が乱打されると、老婆とは思えぬ俊敏さで屈んで家畜小屋を伝って逃げる。確かに魔女のようでもある。しかしもちろん違うかもしれない。逃げるのは別の隠し事があったせいなのかも知れない。この老婆がアンヌに昔お前の母を匿ったお返しに匿えと迫るのも、精神の錯乱に起因するのかも知れない。

どこにでもいるような丸顔の老婆の上半身裸にされての拷問(その残酷は『動くな、死ね、蘇れ!』が想起された)、全部イエスと答えるだけで自分を魔女と認めてしまう質問群。いかにも侵略者の手口である。老婆は「死ぬのが怖い」と繰り返す。その度に、アンヌの老いた亭主の司祭(トルキル・ロース)は「命ではなく魂が大事なのだ」と応じる。たぶん、この応答が本作でいちばん大事なのだ。ここでは命の大事さが何か別の価値で圧倒されている。

司祭が報告書に「マルテは幸福のうちに焼かれた」と記すのが冗談なら、黙示録風の訓戒とミニアテユールでサンドイッチされた本作の構成も、同様の冗談と思われる。村中に煙が棚引く処刑の日、フレーム外から少年隊の合唱と大人の「燃やせ」の大合唱。最後の最後に燃え上がる炎が映され、梯子が即物的に倒されて90度落下し、天辺に繋がれた老婆が絶叫とともに炎に落ちる。この突然のアクションが忘れ難い。これに続いて若いふたりのデートに編集され、火刑の薪を積んだ大八車の通過が眺められ、偽りの幸福が強調される。

司祭はアンヌに告白する。アンヌの母と取引をし、若いアンヌと結婚させてもらう代わりに母の魔女告発を見送った、ということらしいと判ってくる。しかしこれも司祭の思い込みかも知れない。司祭はアンヌに、告白したくて仕方がない素振りを見せる(これが最後の母の告発に繋がる)し、妻には君の母は生者も死者も呼び出せたとも云う。ここで、アンヌが司祭を求め、司祭が背を向けて去り、キャメラは司祭を追いかけ、司祭が再び戻って来ると、アンヌが背を向けていた、という巧みなパンの往復があった。そして司祭が出てゆきアンヌが呼ぶと、帰省した司祭の前妻との息子(プレベン・レアドーフ・リュエ)がすっと入って来るという不思議なショットに続く(『奇跡』にもこういう不思議な部屋の出入りがあった)。

妻と息子は夜のデート、夫の司祭は部屋にひとりというカットバックが続く。この辺りから徐々にアンヌが自我を表すのが上手い。リスベットの両目にスポットライトが当たるショットは、新藤が乙羽信子で戦後多用したものだ。恋人ふたりはボートに乗るとき、ボートは音もなく沼のような処を進む。一方、司祭は仲間の司祭の死(マルテの呪いだ)を看取る。嵐の夜アンナが息子に、もしもあの人が死んだら、と云ったそのとき、嵐からの帰途で司祭は胸を押さえ、死が私の傍を通ったと云って蹲る。

帰宅した司祭をアンナは詰る。貴方は私の青春を奪った、子供を与えてくれない、私は貴方の死を願ったわ。老司祭は倒れて死ぬ。息子は君には願い殺す力があるのか、と不思議そうに問う。このころ私は筋だけ追っていて映画の主題を見失っていたのだが、ここで突然に魔女の主題に戻ってびっくりした。

あの不吉な少年聖歌隊が唄う不吉な葬式で、司祭の母はアンナを魔女だと告発する。息子までが嘘のようにすっと母に寄り添う。抗弁するなら死者に手を置いて誓えと云われたアンヌは従わず、司祭の死体に向かって、貴方からの報いね、私は貴方を殺したのよと告白する。アンヌは魔女だと告白するのだ。驚天動地の収束であり、『尼僧ヨアンナ』が想起されよう。天罰が下されたとナレーションが叫ぶ。英題は「激怒の日」。これも魔女への激怒なのか、ナチへの激怒なのかというダブル・ミーニングがある。

ウルトラ宗教保守の人(または、同じようなものだが、オカルトフリーク)以外がこの事態を観れば、アンヌは狂っていると解するのが自然である。これは、死を望んだらたまたま相手が死んでしまったという偶然なのだ。司祭にしても後ろめたい処を突かれて動転してショック死したと解するのが妥当だ。それなのに、本作ではそうはならない。狂ったアンナの告白をそのまま是と受け取るのだった。こんな社会、魔女狩りを是とする社会は狂っているのである。それはまさに、ナチのように狂っているのだ。

この狂った宗教的奇跡、起こりっこないことが起こるという主題は『奇跡』に屈折して繋がっているが、『奇跡』はさらに複雑になるだろう。本作はフレーム外からの音が鳴り続ける。魔女狩りの鐘の乱打や、嵐の暴風雨。一方の逢引場面では物音がしない。少年合唱隊が唄うのはカトリックの葬送ミサであるレクイエム「怒りの日」(ディエス・イレ)。

(評価:★5)

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