コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 紅い眼鏡(1987/日)

不条理というか、完璧に条理なんだ。だから笑えない。でも、我儘に語りきったときの爽快感は、この作品でしか絶対に得られないものだった。そして、シェイクスピアの引用が実に的確だった。
kiona

 はじめに、このレビューは、甘崎庵さんや皆さんの“この映画は不条理”であるという見方を否定するためのものでは、決してありません。

 そうお断りした上で、僕個人のこの映画に対する見方を述べさせていただきたいと思います。(以下、丁寧語略)

 『ゴジラ対メガロ』という映画をご覧になったことがおありだろうか? 『北京原人』、『REX』と並ぶ日本の三大不条理映画であると、自分は勝手に考えている。

 “本当に笑うことができる不条理”というのは、作家が意図して生み出せるものではない。作家はまじめに作っているはずなのに、否、作家がまじめにやればやるほど、あさっての方向に飛んでいってしまう、そんな作品こそが、罵声と蔑みの果ての副産物として獲得する物種なのだ。

 自分は、押井守が不条理であったことはただの一度もないと考えている。そもそも不条理とは、突き詰めれば“意味付け”の拒否だ。日本の作家のなかでも卓越した“論の人”である押井守は、基本的に不条理から最も遠い類の作家だ。アニメ界におけるもう一人の“論ぜずにはおれない人、論じて人の上に行かねば気が済まない人”宮崎駿と張り合わずにいられない彼の傾向から考えても、彼が“投げっぱなしの不条理”を実践したことはただの一度もない。『ビューティフル・ドリーマー』含めて。論においてこてんぱんにしてくれた宮崎駿への返答は、間違いなく条理であったはずなのだ。

 “笑える類の不条理”ではないが、アニメで不条理なのは、むしろ大友克洋ではないか? 映画版の『AKIRA』や『大砲の街』は、意味を求められるようで、結局は何一つ見出せない。彼の本質である初期の漫画短編集も然り。少し持ち上げるとすれば、この人の最終的な意味付けを拒否する作品群はキューブリックを彷彿とさせる。

 前置きが長くなった。この映画に関する個人的な解釈を述べてみたい。

 まず重要なのは“夢の不条理”というキーワード。この映画は、誰しもが感じる“夢の不条理”を、極めて丁寧に再現した希有な映画だ。

 “夢”…現実体験の記憶が脈絡のない連結を見せ、あり得ない世界を眼前に構築するが、しかし、その中で主体である自分は、そこが現実であると確信して疑わない。或いは“重層夢”…途中でゲームオーバーとなったはずなのに、まだ自分が存在していることに気づき、今までを夢と判断するが、実際にはまだ夢のなか。それらが上手い具合に再現されている。

 しかしこの映画は、そんな“夢の不条理”自体を体現するためのものではない。それは、実を言えば媒介に過ぎない。それを媒介として、押井は別のものを表現しようとしている。それは、もう一つの夢、“見る”夢ではなく、現実世界に対し“抱く”方の夢だ。

 具体的に、その夢が、この場合、何になるかと言えば、全共闘、いや、学生運動、いや、反体制運動ということになる。そういった社会運動に従事する者の行動原理を考えてみて欲しい。突き詰めれば、“俺が世界を変えるんだ!”、“俺が腐った世の中を撃つんだ!”そこに行き着く、まさに甚大な夢。

 前者の夢と後者の夢には一つ、決定的な共通項がある。眠りにつき、その中にいる間は決して意識することはないが、夢において我々はしばしば世界の中心にいる。夢の最大の不条理が此処にある。良い夢であれ悪夢であれ、夢の中にあっては、登場する誰しもが自分という中心に円を描くように存在しているのだ。都々目紅一にとってそうであるように。これは“抱く”方の夢にも言える事だ。“抱く”夢もまた、自己の中心化という側面を必ず持っている。どちらも、所詮は自分というちっぽけな器=自分の脳味噌の中に宿すものでしかないという限りにおいて。

 この映画における最大のポイントは、この“見る”夢における自己の中心化が、このように、“抱く”夢、ここでは社会運動の夢=“ドンキホーテの動説”に対する暗喩、否、自己批判になっている点だ。

 “俺が腐った世の中を撃つんだ!”…“撃てるわけないじゃない。おまえはこの広い世界の主人公なのかね?” という具合に。

 例えば劇中、鷲尾みどりが懺悔のなかで“個人主義”と“冒険主義”を並立する。個人主義は往々にして冒険主義でしかなかったという皮肉な教訓だろう。

 こういった内省を意識して、もう一度見渡して欲しい。一見不条理に見える全てのモチーフや、或いはアニメ的お約束を強引に取り入れた演出の無茶は、全てが社会運動の本質を暗喩するための記号として前景化してくるはずだ。

 内省をオブラートにくるむための“夢の不条理”という媒介。そう、全ては押井流条理の産物なのである。

 無論、内省、自己批判と言っても、自己否定では決してない。的確な揶揄たり得ている名台詞の数々は、健在な批判精神の刃だ。内省と二律背反でぎらつく戦後批評に迷いはない。だが、おそらく押井は、パトレイバーの様に、それを前面に押し出すことに、重みを感じないのだろう。それが、大人としての照れ隠しなのか、作家性なのかは測りかねるが。

 照れ隠しと言えば、自己批判と戦後批評の二重構造を貫徹した果てに、この映画はいたくロマンティックな終わり方をする。

 …最後の最後で馬脚を現した押井さん。自己批判が自己否定に収束しようとした臨界点で、ちゃぶ台をひっくり返し、“夢”を大肯定して、そのままトンズラしてしまった。

 “それでも夢は美しい”

 まったく酷い。緻密に条理を重ねてきたのに、全くの根拠不在で全てをひっくり返してしまった。そう、このラストの一点だけは、論も条理もクソもない、実に強引な本末転倒である。

 だがそれ故に、このラストを愛してやまない。論の人が、論をすっ飛ばし、本気でロマンを語ったのだ。それでこそ生まれた根拠不在故の美しさ、根拠不在故のカタルシス。おそらく彼の作品群の中、この作品の、ここだけに起きた現象だったろう。ここだけは不条理、不条理な爽快感、爽快な夢の不条理だ。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (5 人)ペペロンチーノ[*] 秦野さくら[*] HW[*] uyo[*] 甘崎庵[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。