[コメント] Deep Love 劇場版 アユの物語(2004/日)
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そんなにこの世が憎いか? 同じくこの世に生きる人間として反論させて頂く。
さて、このアユという人物は人生の行く末に苦悩しているように見えて、実は何も考えていない。なぜアユが漠然と生きるようになったのか、なぜそこまでして金欲しさに援助交際をするようになったのか、という疑問に対して、彼女自身だけでなく映画そのものが何一つ答えを出してくれないのだ。逆に「何で身体を売っちゃいけないの?」という質問を世の中に撒き散らして、それに対してすぐに答えを出せない社会を馬鹿にするような態度を取る。全てはこの世の中が悪いのだ、と言わんばかりの態度を。
何ともステレオタイプな社会批判である。「社会が悪い」と言ってしまえば、大体の社会問題は全て解決してしまうくらいこのフレーズは使い回されてきた。その社会を構成しているのは“人”であり、人無くしては社会は出来ない……って、こんな当たり前のこと書かせるな!(こんな理論をわざわざ持ち出さねばならないのだから、本作のレベルはたかが知れている)そうであるなら彼女達もまた“社会”の一部なのだから、彼女達にもその責任は少なからずともかかっているはずだ。にもかかわらず本作の主人公はそんな責任を負っている様子も見せず、製作者側もそんな彼女に責任の一片すら持たせようとしない。とにかくこんな風にさせてしまったのは世の中が悪い、社会が悪いと繰り返す。
そう、それだけ繰り返していれば、将来どうして良いのか分からずただ漠然と生きている(ような気がする)人達や、社会に不満のある若者達の共感を得ようというものだ。そういう点ではこの作品の製作者側は計算しているように見えるが、そういっている本人たちも物語の主人公達と同じく、疑問に対する答えを出そうとはしない。それどころかアユを悲劇のヒロインに据え付け、彼女の死によって全てうやむやにしてしまった。そしてなおも疑問を呈し続け、最後にあの字幕……。ここまで来ると、どこまで考えた上でやっているのかさっぱり分からない。
製作者側は、悪い世の中のおかげで汚された少年少女達を護り、綺麗なままでいさせようとしている。だがそれよりも重要なのは、例え汚されたとしても自分からその汚れを拭うか、こんなの汚れたうちになど入らんわ!と払い飛ばせる気力ではないのか。いつまでも保育器の中にいさせるような癒しの言葉など、欲しくは無い。汚れに立ち向かえる力を与えてみせろ!
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