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[コメント] エレニの旅(2004/ギリシャ=仏=伊)

「水」が隔たりの象徴として反復される演出も含めて、美しさの反面、どこか空々しい。主体性が希薄なエレニは、多用されるロングショットの風景の一部としてしか存在し得ず、祖国の悲劇の為の泣き女という、抽象的な象徴の域を出ていない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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冒頭シーンで早速、群集を水面の向こう側に立たせる構図をとってみせるこの映画。夫・アレクシス(ニコス・プルサディニス)がアメリカ行きを望んでいることにショックを受けたエレニ(アレクサンドラ・アイディニ)が、海を眼前にして船を待つシーンや、アレクシスが船でアメリカに渡るシーン、音楽仲間たちが集う溜まり場に水溜りが出来ていること、双子の息子がどちらも水面の向こう側に亡骸を晒していることなど、離別や断絶の象徴として幾度も「水」が反復される。一度は村を捨てたエレニとアレクシスが村に戻り、アレクシスの父・スピロス(ヴァシリス・コロヴォス)の葬儀を行なうシーンに挿まれる、彼らを乗せた筏の後ろから夥しい小舟が付き従うショットの、筆舌に尽くし難い超絶的な美しさ。

村が水没するシーンでは、一定期間だけ水が涸れる湖の底に、実際に家々を建てて撮影したらしい。そうした徹底性は立派だとは思うのだが。エレニはギリシアの哀しみを一身に背負った、彼女自身が象徴的な存在なのだろうが、一個の血肉を備えた人物としての印象があまりに希薄で、ひたすら運命に翻弄されつつ泣き叫び続けるのみ。詩的なインスピレーションを実現させることにのみ徹底しがちなアンゲロプロスは、特に本作では映画監督というより所謂「映像作家」に傾きがちに見える。

アメリカへ行くアレクシスは、客船に乗り遅れたせいで小舟で後を追うことになり、「小舟を漕いでいく」という画がここでも反復される。エレニが編み終えることが出来なかった縫い物の赤い毛糸を引きつつ去っていくアレクシス。或いは、無数の白いシーツが風に揺れる中で演奏を行なう音楽家たち。その演奏が突然の銃声によって中断され、撃たれたニコスが血にまみれた手でシーツに触れ、彼の指の跡が赤く残る。こうした詩的な映像はどれも、「映画監督の思想の<洪水>」(アンドレイ・タルコフスキー著『映像のポエジア』)と言うべき、あまりにその暗喩的な意図が透けて見えすぎる演出に思える。

タルコフスキーと言えば、長回しの多用という点で共通してはいるが、アンゲロプロスの場合、カメラが緩慢に動いていく中で幾つかの出来事が起き、カメラの運動が終点(しばしば始点の位置に帰っている)に至った時点でショット内の空間が、出発した時点とはまるで様相の異なる雰囲気をまとっている、という演出が多い。タルコフスキーのように、存在と時間の圧倒的な重量をショットに封じ込めようとする執念というよりは、シーン内の時間を実時間と一致させる手法としてのワンシーン・ワンカット。タルコフスキーの場合は、ワンカットが長かろうともそれは飽く迄もショットであり、シーンを構成してはいない場合の方が多い印象がある。本作でもアンゲロプロスはショット内に鏡を導入しているが、これは、カットを割らずにショット内ショットで処理する為に導入された観がある。

先述した白いシーツもそうなのだが、エレニがスピロスとの結婚式から逃げ出した際の白いドレスに始まり、逃げた先の町で、脱走を助けてくれた人たちと一緒に歩くシーンでの、エレニ一人だけがドレスの白を際立たせているカット、難民の住居となっている劇場に入ると、洗濯物や、各住居を覆うシーツの白によって、エレニと同じような立場の者が集っていることの安心感を与えるショットが現れること、しばらく黒い服を着ていたエレニが、アメリカ行きを夫が希望していることに動揺して港に立っているシーンでは、再び白い服に身を包んでいることで、運命が振り出しに戻ったかのような悲劇性を印象づけていることなど、「水」と並んで「白い布」も執拗に反復される。スピロスが、水の中で、木の枝にかかった白い花嫁衣裳を見つけて嘆くシーンは、この二つの象徴が共同して織り成した光景だ。音楽隊の演奏とニコスの死が起こる、白いシーツの空間は、『霧の中の風景』の白のように、国境も対立も無い自由な空間としての彼岸なのだろう。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)赤い戦車[*] ゑぎ[*] けにろん[*]

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