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[コメント] ミリオンダラー・ベイビー(2004/米)

イーストウッドはこう要求したという――「黒をもっと黒くできないか」。この闇には、人の体温が宿っている。深い陰影によって表情が際立ち、表情が影に隠れることで観客の想像力を刺激し、闇が、場の空気と登場人物を一体化する。「黒」による、画面の彫琢。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







マギー(ヒラリー・スワンク)がパンチング・ボールを叩く音が、心臓の鼓動のように、ジムを活気づける。そんな彼女にフランキー(クリント・イーストウッド)が最初に行なう指導は、「見ていて気づいたんだが、君は足を動かさないな」。そうして、足の動きがボクサーにとっていかに大事か教えるのだが、これが後半、マギーが足を切断されることの絶望感、選手生命を絶たれる悲劇を、より実感させる。フランキーは、チューブに息を吹き込むことで操作できる車椅子を買えば、大学にも……とマギーを励ますが、それは、座って読書することが日課のような彼、教会に通っては執拗に教義について質問するような性格の彼だからこそ言えること。

マギーの床擦れした四肢が悲惨なのは、傷を負っているからではない。ボクサーは、傷を引き受けて闘う存在なのだ。床擦れの哀しさは、体が全く動かせないことの結果であるからだ。皮肉にも、マギーが首から下を動かせないことで、彼女の表情への注意はより高められることになる。マギーが舌を噛み切って鎮静剤を打たれた後のシーンでは、その表情が失われ、マギーがマギーでなくなっている。スクラップ(モーガン・フリーマン)が買ってくる洗剤の値段にまで神経質だったフランキーが、マギーは良い病院に入れるなどして労わるが、闘い獲ったミリオンダラーに意味は無い。マギーもまた貧困から抜け出そうとしていたのだが、金よりも、闘えないこと自体が、マギーが彼女自身であることを不可能にする。金は、愛情も何も無い家族を寄せつけただけだった。

ここで、フランキーが止血係からトレーナーになったという経歴が意味を持つ。止血係は、ボクサーが負った傷を応急処置して無理にでも闘わせる役割でしかなく、スクラップの台詞にもあるように、闘いそのものを止める権限は無い。だが、トレーナーとしてもフランキーは、選手の肉体を守るという役割を果たすことができなかった。そこで彼が直面するのは、マギーの魂にできた傷だ。動かない肉体を抱えたまま生きていくことで、彼女のボクサーとしての矜持は、傷つけられていく。その傷からの見えざる出血を止める為に、マギーの肉体そのものを葬ることを余儀なくされるフランキー。

だが、「これは父と娘のラブストーリーだ」「ボクシングは素材に過ぎない」と語るイーストウッドにとって、「尊厳死」もまた素材であり、主題ではない筈。尊厳死一般の是非について普遍的な答えを提出するつもりは、イーストウッドにも無かっただろう。生き、死んでいくのは常に、具体的な誰かであり、他の誰かとは替えられない。普遍的な真実があるとすれば、逆説的にも、その「普遍的な答えなどあり得ない」ということかも知れない。この作品が教会(=あらゆる者に常に同一の教えを説く)に最も抗うのは、まさにその点に於いてではないだろうか。

イーストウッドの作品に多く見られる「暴力とキリスト教」というアメリカ的主題が、ここでも描かれている。この主題はまた、「肉体と魂」という問題でもある。娘から見捨てられた父親としてのフランキーと、亡き父の姿を彼に重ねるマギーの関係という点で、「父」の映画でもあるこの作品は、死を望むマギーの心情に苦悩する気持ちをフランキーが神父=「father」に告白しつつもその言葉に従わない結末という形で、キリスト教という主題と結びつけられてもいる。

「モ・クシュラ」は本来は「My pulse(我が鼓動)」と訳すべき言葉らしいが、劇中でフランキーがマギーに教えたのは「My darling, my blood(我が最愛の者、我が血潮)」。「我が鼓動」に含まれる二通りの意味を取り出すことで、より台詞に明確な意味を持たせたのだろう。何より、そこに「blood」が含まれている点は、フランキーが止血係から経歴を始めていたことを想起すべき所だろう。

一見すると、些細な脇役に過ぎないデンジャー(ジェイ・バルチェル)の、最後の再登場が良い。青白くひょろっとした、一生誰にも勝てそうにないデンジャーは、家族に恵まれない点でマギーと似ている一方、天性の才能を持つマギーとは対照的。そんな彼が、一度コテンパンに負かされながらも、ジムに帰ってくるラスト・シーン。マギーは、恵まれた肉体とセンスを活かし切るようにして太く短く生きていったが、それとは真逆の人生を歩むであろうデンジャーには、凡庸であるが故の試練があるだろう。人間は、誰でもなく自分に与えられた魂と肉体を武器に闘うしかないのだが、また、自分自身という限界と闘い続けるという点に於いては、マギーもデンジャーも平等なのだ。ラスト・シーンでの、デンジャーに注がれるスクラップの眼差しの温かさ、その慎ましくも確固とした肯定性は、あらゆる人生を励ますものだ。

(評価:★4)

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