[コメント] わが青春に悔なし(1946/日)
節子は小津向きとか思っているとカウンターを喰らう。此処での彼女は女版大魔神、或いは狂った観音様の如きド迫力の演技を見せる。孵りかけでのたうち回る天才が独創と情熱だけの演出で押し切った結果であるとしか言いようがない。
確かに抑揚がぎこちなく、主張が流れやリズムに先立ってしまっているので、展開に置いていかれそうにもなるが、演出の随所に巨匠の生い立ちを見出すことができ、非常に興味深い。幸枝をショーウィンドウ越しに追うといった当時のハリウッド映画を思わせるハイカラな撮り方をしてみたり、野毛(藤田進)と再会するシーンで野毛自体を映さず影だけを映すといったシンボリックな演出をしてみたり、その後次から次へと飛んでもないことをやらかしていく天才の片鱗がすでに見え隠れしている。もっとも、一番らしいのは終盤である。幸枝自身と彼女を取り巻く環境の激変という辛くなるような展開を描破する、その手加減の無さ。そして、それをポジティブな方向に持ち上げていくタフネス。主張の裏にこれといった独自のロジックの一つも見当たらないし、匙加減を覚える以前らしく歪な出来となってしまっているが、少なくとも終戦の翌年にこれを撮りきったアティテュードに欺瞞は感じない。
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