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[コメント] 若者のすべて(1960/仏=伊)

やっと訪れた幸せの宴は、次の試練の呼び水。それでもきっとまた宴の時は来る。―閉じるたび風の音がするような睫毛、許しを乞う様な贖いの憂いを帯びつつ、その奥にストイックで強靭な意志を感じるアラン・ドロンの瞳。彼に見つめられたら誰でも惚れる。
muffler&silencer[消音装置]

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







去年見た青山真治監督の『EUREKA』を思い出した。

あの作品のコメントには

 「人はただ『ソコニイル』だけなのに、神はただ『ソレヲミル』だけなのに、何かがそれを許さない。その『何か』とはきっと『風』。その風がこの映画には吹いている。」

と書いた。その頃丁度読んでいた『荘子』に出てくる「天籟」(*1)という思想に感銘を受け、いろいろ書いてみたかったが、うまくことばにならず、結局何も書けずにいた。が「ワレココロミニコレヲイワン」で、この『若者のすべて』について書いてみたい。

たとえば、鮫は一生涯泳ぎつづけなければ死んでしまう。鮫でなくとも、万物生きとし生けるもの、命を授かった場所で、死を迎えるまで生き続けることはできない(植物は一旦置いておくが、厳密には植物も)。意志の有無に関係なく、鮫のごとく「動」かねば死んでしまう。呼吸も<動>だ。その<動>の中に<風>が生まれる。その<動>ゆえに、仕合わせや不仕合わせ、喜怒哀楽、ありとあらゆる情が生まれるのではないだろうか。それは「神の意志」でも「因果律」でもなく、「因―果」の間にある「―(ハイフン)≒縁」ではなかろうか。(*2)

この『若者のすべて』でよく言われるリアリズムとは、この<風>、この「縁」、この<動>を見事に捉えているところに、その真価がある。都会の海に溺れ沈んでいく次男シモーネにしろ、その沈み行く水流に巻き込まれ彼を救おうと自己犠牲に奔る三男ロッコにしろ、二人の間で翻弄し二人の愛の狭間で<生贄>となってしまう娼婦ナディアにしろ、何か確かな「因」となるものがあって「果」となったのではなく、自らの<動>による<風>と、「縁」に呼び寄せられた他者の<動>による<風>と重なるとき、その「旋風」に吹かれているだけなのだと思う。その姿を映し出すための、必然としての、この映画の180分という長さなのだ。

「因果」を描く映画は沢山ある。「物語」とはそもそもそういうものだと言っていい。「怨恨」があって「殺人」があったり、「出会い」があって「恋」があったり、そういう「原因」と「結果」を描く映画は山ほどあるが、その「過程」を、さらに「過程」とせずに、そのものを描く映画の存在は稀有だ。

ロッコは、家族に降りかかる災難を、「自分のせいだ」と試練として受け入れ、自己犠牲に奔る。中盤までは彼の姿にシンパシーを感じるが、それも段々と薄れていく。終盤などは「どうしてそこまでするのか」という憐憫と、何かしら嫌悪や非難に似た情も催す。彼の執拗なまでの罪悪感と、故郷ルカニアへのノスタルジーに、困惑すら感じてしまう。だか、やはり、彼の内から起こる風=<天籟>ゆえに、彼はそうせざるおえないのだ、という世の無常を感じることも確かだ。ロッコ演じるアラン・ドロンのあの瞳。特に、ナディアから兄シモーネの盗みを知らされた夜、兄を責めることなく「店を辞めた」とだけ告げ、ベッドで横になり、じっとカメラを見つめる、あの瞳。あの瞳に、彼が起こす風すべてが集約されていると感じた。

また、長男ヴィンチェンツォと四男チーロの存在。映画ではメインとして扱われないが、彼らの存在こそがこの映画の迫真性を強めている。彼らは、ミラノという社会 の<風>に苦しみながらも乗る(=順応)、自分の内なる風を合わせることができる人間だった。それゆえに、チーロは、シモ―ネの罪を社会の制裁に任せようとするのだ。ラスト、チーロが、工員の仲間と肩を組み、現れた恋人と抱き合う姿、ここにそのすべてが集約されている。

そして、末っ子のルーカ。ここで、最初に触れた「命を授かった場所」への回帰、その故郷というトポスへのノスタルジーについて書かねばならない。ロッコの故郷ルカニアへの郷愁、彼は、その夢をルーカに託している。そして、この家族の崩壊の原因は、故郷を離れたことにあると、その思いを罪悪感に変え、自己犠牲的行為に昇華している。恐らく憧憬の対象であるロッコのことばにルーカも影響を受けるであろうが、それをチーロは極めて冷静に、そして現実的に捉えている。彼は言う。「故郷の暮らしは従者でしかなかった。故郷も今では変わってしまっているさ」と。(*3)  実際にルカニアでの彼らを見ることはなくとも、この映画の在り方ゆえに、そのセリフに迫真性、真実がある。トポスでさえも、その内から起こる風ゆえに、時間の流れの中で、変容せざるおえない。トポスでさえも旅をすると言っていい。(*4) このロッコの故郷への夢・幻想と、チーロの諦念、それを生きる力に昇華している姿、この両者の止揚を、ラスト、ルーカが、ずらりと貼られたロッコのポスターを撫で行き帰路に向かう姿に見た。

変容する万物。風土の中で、自らの内なる風に、時に流され、時に抗い、時に共に生きる喜びを宴にする人人。冒頭の長男の婚約の宴からラスト近くの三男の勝利の宴、そこで幕を閉じる映画は沢山ある。この『若者のすべて』はその先を、その奥にある流れと空気を見つめている。その万物流転のありようをここまで描き出す映画は、なかなかない。

結局、雑感を書き散らしただけのようになってしまったが、この『若者のすべて』におけるビスコンティの力とドロンの瞳の力は恐ろしい。何かを語ろうとするのではなく、語りの中の息、その<風>をフィルムに焼き付ける、その力。圧倒された。

[2.11.02/日本イタリア京都会館]

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*1:『荘子』では、<風>を「人籟」「地籟」「天籟」の三つに分類して説明している。以下はこれを説明した引用。

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子キはこれに答えていった。

「大地の吐く息を、名づけて風という。この風が起こっていないときは、何事もないけれども、ひとたび起これば、地上のすべての穴が怒りの声を発する。(中略)」

子游がいった「お教えにより、地籟は無数の洞穴がたてる音のことであり、人籟は笛などの楽器の音であることを知りました。それでは天籟とは何か、お尋ねしたいと思います。」

すると、子キは答えた。

「それはほかでもない、さまざまの異なったものを吹いて、それぞれに特有の音を自己のうちから起こさせるもの、それが天籟である。万物が発するさまざまな音は、万物がみずから選び取ったものにほかならない。とするならば、真の怒号の声を発しているものは、はたして何ものだということになるのであろうか。」

(『荘子 内篇(第二 斉物論篇)』森三樹三郎訳注,中央公論社,1974.)

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尚、これはあくまでも森三樹三郎先生の解釈を込めた訳である。

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*2:たとえば、イングマール・ベルイマン監督の言う<神の沈黙>は「ここ」にあるのではないだろうか。

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*3:ビスコンティは、映画には一切その場面は登場しないが、ルカニアへロケに行ったそうだ。

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*4:その「帰郷」の悲劇、熊井啓監督作品、田中絹代主演『サンダカン八番娼館 望郷』を思い出す。

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*余談:個人的に気になっているのは、シモーネとあの四十万リラを貸したマネージャー(トレーナー?スポンサー?)とのやりとり。あの解釈は、要はシモーネは「男娼」にまで身を落としたということなのだろうか。

(評価:★5)

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