[コメント] 夏の嵐(1954/伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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清らかな愛を歌う場面から始まり、思い出を蘇らせてと嘆く場面へと繋がってゆくオペラを背景に、フランツとリヴィアは鏡の中で初めて出会う。そんな演出で始まるこの映画のテーマは”虚像”。
フランツは鏡を見るのが好きだ。自分を確認するために。彼は紳士であり軍人であり、軍服姿も凛々しく女性にもて、おそらく優秀な将校なのだろう。しかし、それは彼本来の姿ではなかった。彼の中には紳士とは真逆の一面があり、裏に回れば密告をしておいて自分じゃないと嘘をつく、そんな負の一面を隠していた。また、戦争で傷つきたくないという臆病さも抱えていた。これらは普通の人間なら誰もが持ちうる感情だ。しかし彼はそんな一面に向き合わず、常に理想の自分(虚像)を演じ続けた。そんな自身の二面性に対する恐れと後ろめたさが、彼を常に鏡を覗かなければいられない心理に追い込んでいたのではないだろうか。
そんな時、フランツは新しい鏡を手に入れた。自分に魅了され自分の崇拝者となったリヴィアだ。リヴィアに会う時、フランツは理想の自分を演じ、鏡の中に映る自分を見るような満足感を得ることができたのだ。おそらく彼にとって女性とは、自分を映す鏡だったのかもしれない。自分はこんなにも愛されるほど魅力があり、愛されれば愛されるほど自分自身に酔うことができたのだ。
ではフランツは、リヴィアをまったく愛していなかったのだろうか? リヴィアとつきあうのは、もちろん金銭的な恩恵に期待してのことや、伯爵夫人とつきあうというステータスだったのかもしれないが、決してそれだけではないと思う。私は、フランツがリヴィアの膝の上で夢を見た、という場面に注目してみた。彼が見たのは、子供の頃にした兵隊ごっこの夢だった。彼はリヴィアといる時、子供に帰った夢を見た、すなわちこれは、リヴィアの中に母性を感じたことを意味するのではないかと解釈した。フランツはおそらく、無意識に母の面影をリヴィアの中に見出していたのかもしれない。フランツはリヴィアの事が好きなのかどうか判断に迷っていたのだが、そう考えると納得がいった。
一方リヴィアは、と言えば、これまた二面性を持っていた。国や仲間の身を案じる貞節な淑女の顔と、それとは正反対に恋のためなら夫も国も裏切る不義の顔と。普段は道徳的であり、フランツへの許されぬ想いに悩み苦しむようにも見えるが、実はそんな自分に酔っているだけの劇場型の恋愛のようにも感じられた。リヴィアは劇中で「現実の恋でオペラの主人公のように振る舞うことは感心しない」と発言してるにも関わらず、自らがそれを演じてしまうという皮肉。事実、リヴィアはフランツのどこに恋していたかを考えてみても、表面的な事しか思いつかない。リヴィアはフランツの中に自分の理想像を感じ取り、それはフランツの本質ではないにもかかわらず、その虚像に恋をしたのだ。もっともそんな幻のような恋でも、リヴィアにとっては本気だったことに間違いはないだろう。
リヴィアとフランツはお互いに都合のいい一面で繋がっており、そこで踏みとどまっている間はまだ幸せだった。それは劇中に見られるオペラのごとく演劇的な虚構であり、自己陶酔なだけかもしれないが、当人たちにはそれで満足だったのだろう。しかし、その均衡を破ったのはフランツだ。自分が卑怯者であるという負い目から彼は堕落してしまい、その矛先をリヴィアに向けてしまう。リヴィアが除隊したフランツの元に突然現れた時、彼はどう思ったか。リヴィアを見た彼はいやおうなしに、金の力で軍から逃げ出した卑怯な自分という、最も見たくない姿を突きつけられたのだ。(まるで自分の醜い姿を鏡で見せられたように)自分の見られたくない姿を知っているリヴィアに対峙することは、彼にとって屈辱以外の何者でもないのだ。そんな状況から自分を救う方法は、リヴィアを笑い者にし貶めることで、自分への呵責を逸らすしかなかったのだ。この時のフランツは自虐的ではあるが、初めて自分の気持ちを剥き出しに語り、自分の素顔を見せている。彼はもしかしたら、この独白の時に、リヴィアに救ってもらいたかったのではないだろうか。フランツがもし本当の悪人だったら、あれほど自分を苦しめたりはしなかったはずだ。ハイネの詩を読み、繊細な感受性を持つ男。女性の心をもて遊ぶが、自分しか愛せない孤独な男。そして自らの弱さに苦しみ堕落してしまう男。それがフランツなのだ。リヴィアに対してひどい仕打ちをしたのも、彼の苦しみがそれほど大きかったからだと思うと、なんだか不憫に思えてしかたなかった。
リヴィアはそんなフランツの真実の姿に絶望した。もしリヴィアの気持ちが本当の愛であったなら、そんな彼の真実の姿をも、受け入れられたかもしれない。だが、リヴィアもフランツの中にある虚像を見ていたにすぎなかった。そしてその幻想が崩れた時、リヴィアは自分自身の姿を思い知らされ、(鏡を見るように)その状況から逃れるために事実を抹殺しようとしたのだった。その後リヴィアは、フランツの名を呼びながら闇の中に消えてゆく。果たして最後にリヴィアが叫んだフランツとは、本当のフランツのことなのか、それとも幻想のフランツのことなのか、それは誰にもわからない。二人の恋は、フランツの密告に始まり、リヴィアの密告で幕を閉じた。フランツはもちろんだが、リヴィアにとっても、もう明日はやってこないのだろう。思えば、二人が初めて歩いた深夜のヴェネツィアで、彼らが見たのは兵士の死体だった。これは後のフランツの姿を予兆しており、二人の恋の結末をも暗示していた。
この映画でヴィスコンティは「些細なことが大切だ。その時は気づかなくても、そういうものは後で記憶に残る」とフランツに語らせている。これは言わば「神は細部に宿る」に通じるものがあり、それを自ら実践しているような映画である。ヴィスコンティ映画の中で、なぜか一番見る回数が多い映画。
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