[コメント] 二十四時間の情事(1959/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「君はヒロシマを何も見ていない、何も知らない」。そう、女が見ているのはヒロシマを媒介にしたヌベールに他ならない。
今も町の至るところで戦争を語り継ごうとしている土地「ヒロシマ」。そこで女は一人の男と出会い、男と寝る(一つになる)ことで意識の底に眠っていた過去が徐々によみがえり、現在のヒロシマに過去のヌベールの断片を重ね合わせ、過去のヌベールが現在のヒロシマと一つになりよみがえる。
日本人、所帯持ち、戦地に赴いていたこと、その他職業などいくつかのデータで説明されている男。しかし専ら聞き役に回り時を過ごすにつれ、次第に男が本来持つはずの具体性が薄れていき、女の中で男は戦死した過去の恋人となり、最後には「ヒロシマ」という一つの記号になる。そう、この影のように付きまとう男は、結局女の記憶を呼び覚ますための媒介であり、最後に女にとって男は「記憶」そのものといえる存在にさえなる(※)。
個人的にはこう解釈してみる。戦争の勝利に浮き足立ち、残した傷跡(女のこと)を地下に閉じ込め、仕舞いには土地から追い出してしまった「ヌベール」という町が、未だ戦争の爪あとを残し、語り継ごうとする「ヒロシマ」と出会うことで、封印していた戦争の傷跡が呼び起こされる。男女の行きずりの情事から始まって、次第にそんな作り手側の意図が見えてくるように思えた。
そして重要なのは、記憶というのは風化し、いつしか自然に消えていくのだと思いがちだが、そうではなく殆どの場合、記憶そのものは存在していて、ただ意識の深い底へと沈められているだけに過ぎない、という事。誰もが無意識のうちに使う「無関心」という手段で。もしこの映画が戦争に関したことで何か一つ告発しているものがあるとすれば、個人的にはこの「無関心」ではないかと思う。
ラストで女は「過去は全て忘れた」と宣言する。果たして本当に忘却したのだろうか。女の「ヒロシマ」との出会いは、現在も、(おそらく)これからも戦争の記憶を残しておいてくれる土地との出会い。「戦争の傷跡」としての女をヌベールは受け入れてくれなくても、自らの記憶を全て曝け出した「ヒロシマ」は受け入れてくれる。「ヒロシマ」に自らの傷跡の記憶を吐き出すことで女が過去を葬ろうとするのであれば、それは自らの土地から「傷跡」を隠し、追い出したヌベールという町と同じである。女(=ヌベール)は過去を忘れたというよりはむしろ、過去を他の土地に託した、と言ったほうがしっくりくる。
被爆した(具体的な)土地としての「広島」が、この物語の女のように外部の人間の戦争の記憶、戦争への思いを呼び覚ますとき、はじめて媒介としての「ヒロシマ」という記号になるのではないだろうか。「ヒロシマを忘れるな」という言葉は、実は「原爆」という一言では語り尽くせないくらい多くのものを含む言葉なのではないか、とあらためて思う。
そして登場人物が「男」「女」「ヒロシマ」「ヌベール」という記号からなるこの物語自体も、非常に多義的である。いろいろ長々と書いたが、上記のことはあくまで個人的な解釈の一つに過ぎない。人によってはこの物語に恋愛の有り様を見るだろうし、さらには全く他のものを見るかもしれない。あたかも観客がそれぞれの解釈を加えることで、はじめて一本の映画として完成されるかのようだ。後の観客参加型映画『去年マリエンバートで』への布石は、この映画で打たれたのだろう。
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(※)とりわけ印象深いシーン。女が男と別れて一人で再びバーに行くと、見知らぬ男に声をかけられ、それを遠くの席で別れた男が見守り、距離を縮めず無言で視線を交わすシーン。岡田英次演じる男の注ぐあの視線。あれはこちらが過去の「記憶」を葬リ去ろうとする時、逆に「記憶」自体が葬り去ろうとするこちらに投げかける視線そのものなのではないだろうか。
(2002/10/16 再見)
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