[コメント] お茶漬の味(1952/日)
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これは有名な話なのか寡聞にして知らないのだが、本作は『淑女は何を忘れたか』と同じ筋立である。斎藤達雄は佐分利信、粟島すみ子は木暮実千代、佐野周二は鶴田浩二、桑野通子は津島恵子(役名は同じ「節子」。なお、お手伝いさんも両作とも「ふみや」)にあたる。遊び回る奥様連中という序盤が同じだし、地方から出てきて家をかき回す桑野はそのまま津島だし、粟島に隠れて桑野の夜遊びに付き合わされた斎藤、粟島に「貴方から叱っておいてください」と云われ、粟島が傍にいるときだけ桑野を叱っている、という秀逸なギャグは、本作でも木暮・佐分利・津島の間で繰り返されている。妻が夫との仲直りを奥様連に惚気る収束も、柱時計の鐘が夜中にお祝いのように鳴り響くのも同じ。
しかし大いに違うのは夫婦の仲直りの仕方で、妻を平手打ちして夫の威厳を取り戻す『淑女』に対して、マイペースの夫に対する行き過ぎを妻が自ら気付く本作は180度違う。『淑女』は傑作喜劇だが、このフレームを好んだ小津が、今度はリアリズムの切り口で撮った変奏曲なのだろうと思う。
本作は、意外なタイミングで意外な人物がフレーム・インしてくる、という展開が繰り返される。冒頭、津島恵子は佐分利宅へ喜劇的に登場して木暮実千代の嘘をばらしてしまう。また、見合いから逃げた津島は何度も突然に佐分利の前に現れる。そして最後は夜半の佐分利の突然の帰宅である。この一貫性がフィルムに固有の「調子」を与えている。平凡な監督とはレベルが違う。
『淑女』ではマレビト桑野の正論が斎藤に影響を与えるのたが、本作でも見合い結婚を嫌がる津島の真面目な意見が佐分利を動かし、木暮に向けて「君と僕みたいな夫婦がもう一組できるだけだ」と禁句を吐かせてしまう。だからこの意外な登場が津島から佐分利に引き継がれるのも、ふたりが同期したためのように見える。
佐分利の夜中の帰宅以降の展開は、直前にベッドに横になった木暮の見た夢ではなかったのか、という解釈が成り立つのが巧みだ。帰宅は木暮の無意識の願望に違いないから。本作のベストショットは、木暮の怒りを表現した鉄橋を渡る列車の轟音の件。感情を画で語って凄味がある。笠智衆のパチンコ屋の親爺は最高だが、彼の「フィリピンは良かったですなあ」という回想はほんまかいなという違和感がある。いくらアッパークラスでも茶漬けくらい食べる訳で、夜半の食膳が「汁かけご飯」でないのも少し外しているだろう。
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