[コメント] 秋日和(1960/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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プロローグとエピローグそれぞれを象徴するように、たゆたう水面の影=光が壁で踊る。どちらのシーンも鳥肌ものだが、表象しているのは強さと背中合わせの儚さ。
これは、母と娘の強く儚い絆の物語。同時に、二人にとっての戦いの物語。
夫を、父を亡くして七年、寄り添うように生きてきたであろう母と娘。母はただ娘のために強く、娘はただ母のために慎ましく、そうして二人だけの聖域を守り続けてきた。己の自由を抑えながら。だが、それはもとより期限付きの時間。娘はいずれ巣立たねばならないし、母は娘が巣立つようし向けねばならないのだ。
期限への自覚と聖域への愛着、アンビバレントな感情の狭間で揺れる二人。だが、時間は待ってはくれない。
期限が差し迫ると共に、運命が攻撃を開始する。
運命の攻撃…かつて母を思い通りに出来なかった男達。彼らは目論む。「ならば、せめてその娘の人生は、自分達が左右してやりたい」と。結果、彼らのお節介は、アキコとアヤの関係に作用するばかりか、その絆に危機をもたらす。
…だが、二人の絆が壊されることは無かったし、二人が運命に流されてしまうこともなかった。
アヤ…結果だけ見れば、“おじさん”の目論見通りゴトウとくっついたわけだが、彼女はお見合いを蹴り、恋愛をして見せる。その意味にあって、決して流されたわけではなかった。そして…
アキコ…夫の友人達が用意した予定調和の箱庭とそこに納められてしまうことを、最後の最後で拒絶して見せる。永遠の孤独と引き替えに。
時間の流れには逆らえない。だが、二人は流されず、お互いの絆を確認しながら、自分達の手で聖域を埋葬する。ラストの旅行はそのための儀式。
そう、決定的な制約を課してくる時代と社会の中にあっても、彼女達は彼女達なりのアイデンティティーを持ち、戦っていたはずなのだ。
終幕、独りとなった部屋でいつもと同じ様に座すアキコの姿…哀しくも強い。
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